上野 今日、家を出る直前に、非常に著名な方からメールが届きましたので、代読します。
このたび『アステイオン』104号、「漢字・漢語・漢文」特集、刊行おめでとう存じます。かつて私は心を言葉で伝える苦労を次のように申し上げたことがございました。
「文を敷き句を構ふること 字に難し
已に訓に因りて述ぶれば 詞心に逮ばず
全く音を以ちい連ぬれば 事の趣 更に長なし」
つまり、全て訓字を用い漢文にすると、日常の日本語と遠くなって心が十分に伝わりません。だからと言って、全て字音で書き連ねると長くなり煩瑣です。そこで音と訓とを交えて古事を書いたのです。その苦労を漢字文明圏でどう工夫されてきたかを明らかにする、このすばらしい企画につきまして敬意を表したく存じます。
正五位神の位勲五等太朝臣安万侶

太安万侶から今メールが届いたのですよ。1314年もの間、『古事記』成立段階から今日の漢字仮名交じり文に至るまで、この谷間の中で揺れ続けてこそ今があるのではないかという問題提起とさせていただきます。
岡本 ありがとうございます。まさか太安万侶から褒められるとは(笑)。上野先生の大変ありがたい御果報として受け止めます。
ところで、漢字の本場は中国です。今は中国の方々が日本で暮らし、日本の方々も中国で暮らしています。漢字、中国語、日本語の在り方を考えざるを得ない、そんなグローバル時代に、第一線のメディアで活躍される𠮷岡桂子さんは、特集をどう読まれましたか。
𠮷岡 先ほどの太安万侶からのメールを隣の席からチラッと拝見したのですが、やはり縦書きなんですね(笑)。私の所属先である朝日新聞でも出稿システムが横書きに変わり、デジタル化によって日本語を取り巻く環境は大きく変化しています。
2000年前後に「我々はサークルズだね」という表現を聞きました。まだ日中韓の関係がよく、国際金融をつかさどる財務省が定期的に集まっていた頃です。
岡本先生の「巻頭言」の通り、日本の円、中国の元、韓国のウォンはすべて丸いという言葉から来ています。サークルズ、円の仲間。誰からともなく「私たちはサークルズ」、「丸をつかさどる通貨マフィア」というやりとりを交わしたそうです。
しかし、我々はサークルズだねと会話しているその言葉は英語なのです。通貨(サークルズ)の世界はドルが牛耳っています。サークルズと英語で言いつつも、円の由来、元の由来、ウォンの由来を確認し合う時代がこの世代までだったかもしれません。
岡本 英語や外来語の影響は、やはりジャーナリズムの世界でも感じているでしょうか。

𠮷岡 新聞は「なぜカタカナばかり使うのか」と批判されて久しいですが、デジタルやスマートフォン、AIの普及で、その流れは加速しています。
以前は文部省など政府、NHKや共同通信を始めとする大手メディアが蛇口で使い方を判断し、それを正しい使い方として普及させようとしていましたが、SNSの普及で発信が民主化して、言葉がスマホで流通するようになると、状況は大きく変わりました。ますます英語がそのまま入るようになりました。新聞社も漢字にする作業が減りつつある、あるいは追いついていないとも言える状態です。
中国の場合はひらがなもカタカナもないので、無理やり漢字に訳しています。「デジタル」を中国語では「数字」と訳すのに、日本ではそのまま「デジタル」と呼ぶ。この違いは象徴的です。自らの言語に置き換えるには思考が必要にもなります。
太安万侶が漢字で日本語をどう表すかに苦心した時代から1300年以上。いまや英語と横書きが浸透するなか、日本語と中国語、そして漢字文化圏はこれからどう変わっていくのか。今回の特集を読み、その先を考えてみたいと思いました。