
岡本 いくつか論点が出てきました。1つは漢字の広がり、東アジアの社交の中で漢字の持つ役割。それを受けて、音訓をどうするかという、日本史から現代に通じる問い。そして、グローバル時代の中で、漢字とそれを使っている国はどうなっていくのか。それらは東アジア全域、漢語圏、非漢語圏まで広がりを持つ問題でしょう。
本日は多くの寄稿者も会場にいらしています。せっかくの機会ですので、「魯迅はロジンかルーシュンか──二十一世紀東アジアの漢字問題」をご寄稿いただいた金文京先生にもご意見を伺えればと思います。
金 かつて梅棹忠夫先生は将来、漢字はなくなると予言していました。彼は漢字廃止論者だったので、願望も入っていたでしょう。当時の私はまさかと思っていましたが、最近の様子を見ていると、完全になくなることはないとしても、使用される漢字がかなり減るのではと思うようになりました。
日本が漢字を使ったのは飛鳥、奈良時代からで、太安万侶も随分苦労されたことですが、日常会話で漢語が頻繁に現れるのは明治以降です。明治の新聞には、意味もよく分からない漢語を偉そうに使うことへの風刺がよく出ています。
江戸時代の漢文の普及と、西洋文明の漢語訳で増えた漢語が、今のカタカナ言葉と同じような批判を受けます。漢字と漢語は当時非常にハイカラなものに感じたらしく、それが今、賞味期限が切れそうです。
岡本 さすが梅棹先生です。私は滅んでほしくない側ですが、金先生はどこで賞味期限が切れそうに感じていますか。
金 漢字で新しい言葉を生み出すためには、漢字をどう使うかという知識体系の共通が必要です。それが今、古いものもなくなり、漢字はばらばらになって、そこが賞味期限でしょうね。
若い人に聞くと、漢字を使うと重苦しくて、カタカナのほうが軽やかでナウいという。せっかくきれいな黒い髪があるのに、黒は重苦しくて、茶髪だとすっきりするというのと似たような感覚でしょうか。
ここ数日の熱中症警戒アラート。アラートと警戒は同じ意味ですが、そのほうが伝わると言います。高輪にもゲートウェイをつけたがる。これは過渡期的なものに感じられます。
漢字は非効率だから廃止すべきだという議論は、明治時代からありました。ただ、言葉の効率の良し悪しや、「今日から変えよう」という決まりによって変わるものではありません。気がついたときには漢字を使う機会がずいぶん減っていた──そんな変化が起きる可能性は十分にあると思います。
岡本 ありがとうございます。日本の状況を良い悪いと評価する前に、まず何が起きているのかをきちんと捉える必要があるということだと思います。
では、モンゴル語の立場から見ると、漢字や漢語をめぐる状況はどう見えるのでしょうか。私たちにはなかなか知る機会がありませんので、「和製漢語はどこへ──モンゴル語の近代化」をご寄稿いただいたフフバートル先生、ぜひお聞かせください。
フフバートル 先ほど円、元、ウォンの話がありましたが、モンゴルの通貨トゥグルグも「丸い」という意味です。漢字圏の外にも、共通する文化の痕跡があります。
漢字で教育を受ける前の小学校の教室で学んだモンゴル語の中にも実は和製漢語の翻訳語がありました。つまり漢字のないところでも漢語は生きています。
和製漢語は東アジア全般で大学や国会など近代的な社会生活でよく使われ、モンゴル語の近代化でもこの影響は見られます。清朝末期に新聞と雑誌が現れ、モンゴル語へ直訳される。そこで漢語の文法に妥協した形で、「電報」「軍隊」「鉄道」など和製漢語由来の近代語が導入されています。あまり気づいている人はいませんが、モンゴル国の独立以前から、モンゴル語近代語彙の基礎に和製漢語由来のものが定着しています。