一方日本では今とニュアンスが異なっていたと思しきところがあり、例えば近世の歌舞伎を画題とした錦絵には、劇場を「しばい」や「かぶき」と読ませるタイトルがみられるし、明治に刊行された大槻文彦編『言海』を参照しても、「劇塲」の意は「芝居。芝居小屋」としか書かれていない。どうも劇場は、元は歌舞伎劇場か、それに類する施設を指す狭義的な語だったらしい。
須田は劇場をどう捉えていたのか。須田は本書で、劇場の意を「演劇に関連を有する芸能」、すなわち歌舞伎以外も含む実演芸術の「場所ないし建築物」と説明する。そして、劇場という存在を「独自の発達過程を有する唯一の公共建築として最も刮目さるべき文化施設」と捉えた(本書序言5頁)。
まず劇場の定義は、現在の感覚からすればあまり違和感はない。しかし本書以前の研究と比べると、遥かに広義的である。例として後藤慶二『日本劇場史』(岩波書店、1925年)では、劇場は歌舞伎劇場の固有名詞として用いられた。少なくとも大正期頃までは、劇場の意は近世と変わらずにあったと思われるが、須田の定義はこの意の慣用を脱した点に最大の特徴がある。
もう1つの「独自の発達過程」とは、劇場の歴史的変遷の唯一性を指している。須田は、古代の大陸からの影響を明確に認めつつ、鎌倉期から安土・桃山期の能舞台を中心とする「近古劇場建築史」と、江戸期の歌舞伎劇場を中心とする「近世劇場建築史」には、「其の本質や発達史の本流に外国の影響がなかつた」と断言する(本書120頁)。
この捉え方は興味深いが、さらに須田は室町期の日中間の楽舞・演劇の交流が互いの劇場形式に影響を与えたことを示唆しながらも、室町末期の「所謂南蛮人の渡来」は劇場建築史に直接的な影響が認められないとする(本書119-120頁)。
中国との交流が長く続いた可能性は残しつつ、日本の劇場は中世後期以降、「日本的」な「自主性または純粋性」によって変化してきたというのだ。
戦前に書かれた背景からすれば、須田の意図にナショナリズムが潜んでいるとみることもできなくはない。私見としては、須田は劇場を通して、特定の文化・技術が「日本的」なるものに至る過程を、ただ純粋に描きたかったのではないかと考えている。
古代より大陸の建築技術を都度受け入れ、その度に長い年月をかけて固有の様式へ「日本化」してきたのが日本建築である。本格的な「西洋化」は明治以降だ。日本の劇場もまさしく同じ変化を遂げてきたのだから、劇場史も日本建築史の重要な潮流であることに変わりはないのではないか。
おそらくそう思惟をめぐらしたのだろう、須田は「日本建築史は、在来の宗教建築史住宅建築史と共に劇場建築史を鼎立せしめ、之を三大領域に区分すべき」と表明する(本書57頁)。このために劇場の定義を書き換え、その歴史的変遷を「日本的」と評し、中国建築との対照を試みたに違いない。