私は息子のことを思う。小さな彼は、大人の言葉の洪水の中でもがきながら、分かったような、分からないような言葉を1つ、2つつかみ、とりあえず使ってみる。そして大人の反応から、自分の理解が合っていたかどうかを逆算する。

幼い子どもにとって、大人の言葉は薄い霧どころではない。土砂降りである。私たちはみな、幼い頃に言葉の豪雨にずぶ濡れになり、それを丸ごと飲み込み、いつか「ああ、そういう意味だったのか」と腑に落ちる日を待ってきたのだ。

三好愛さんのエッセイ「言葉で伝えるときのこと」(『怪談未満』柏書房)には、こんな話が出てくる。小学生の頃、「うざい」という言葉が子どもたちの間で流行した。どう使えばよいのかは分からない。

でも、その響きの新しさ、嫌悪を表しながら対象との距離を少し縮める奇妙な力に惹かれて、どうしても使ってみたくなる。やがて機会が来た。教室が薄暗くなった夕方、電気をつけるほどではないが、つけないと見えにくい。

三好さんは「今だ」と思い、「暗くて、うざいね」と言った。自分の人間レベルが一つ上がった気がしたその瞬間、「その使い方はちょっと違う」と、すでに「うざい」を使いこなす同級生に訂正されたという。

私はこの話がとても好きだ。新しい言葉を試す時の、あのスリルを思い出すからだ。

子どもの頃、私も中国語の中で、意味を半分しか分かっていない言葉を、何度もこっそり試していた。うまくいけば、自分が少し格好よくなった気がする。外せば、恥ずかしくて、しばらくその言葉を封印する。

そう考えると、日本語を使う時の私も同じである。というより、母語であれ外国語であれ、言葉を使う私たちはみな、少しずつ賭けに出ているのかもしれない。

例えば、かつて私は「まずい」という言葉がとても不思議で、どうしても使ってみたかった。ある日、友人が髪を染めてきて、「どう?」と聞いた。私はついにチャンスがやってきたと思い、勢いよく言った。「まずい!」と。

今でも、彼の困惑した顔を覚えている。でも、言い間違えたからといって何だろう。彼はいま、私の夫である。

【注】
(*1)日本では『メッセージ』の題で2016年に公開された。

段 書暁(Shuxiao Duan)
1988年、中国河南省生まれ。華東師範大学中文系卒業、復旦大学新聞学院広告学修士課程・コミュニケーション学博士課程修了。早稲田大学文学研究科中国語中国文学コース博士後期課程修了。中国と日本でそれぞれ博士(文学)の学位を取得。現在、立教大学外国語教育研究センター教育講師。専門は近現代中国の文学・文化。著書に『清末科学小説の想像力──伝統と近代の狭間にある文学』(ひつじ書房、2026年)。

 

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