日本語が上達すれば、霧はもちろん薄くなる。それでも完全には消えない。私は長いあいだ、自分の日本語が一知半解であることに不安を覚えてきた。言いたいことがうまく言えない時も、人の話が分からない時も、すべて「自分の日本語能力が足りないせいだ」と思っていた。
ところがある日、映画館の前で、長いカタカナの題名が並ぶ洋画のポスターを見て、ふと思った。日本語を母語とする人は、これらを本当に全部理解しているのだろうか。こうした題名を前にした時、彼らの目の前にも白い霧は立ちこめないのだろうか。
『ノーカントリー』(原題は No Country for Old Men)
『メメント』(原題は Memento)
映画だけではない。化粧品売り場の新商品、家電売り場の新機能、食品パッケージに並ぶ栄養成分──あのカタカナの群れを、みんな本当に分かっているのだろうか。
そもそも最初に漢字が日本に入ってきた時、人々はそれをすぐに理解できたのだろうか。万葉仮名にびっしり並ぶ漢字は、いま商品パッケージにあふれるカタカナ以上に不可解だったのではないか。
『論語』に訓点を施した人、漢訳仏典を懸命に読み上げた人、近代西洋の概念に漢語を当てはめた人たちが見ていた世界もまた、霧に包まれていたのではないか。
この霧について考えるきっかけを与えてくれたのが、『アステイオン』104号の特集「漢字・漢語・漢文──文明から考える」である。
なかでも加賀野井秀一先生は、日本語は本質的に翻訳語であり、新しい語が入ってくる時、「一知半解」はむしろ常態なのだと述べている。外からよいものを見つけたら、とりあえず使ってみる。分からない部分は、いずれ自分たちのやり方で理解していく。
かつての漢字がそうだったように、いまのカタカナもそうなのかもしれない。あるいは、言語とはそもそもそういうものなのかもしれない。