西洋クラシック音楽によって成し遂げられたこの身体的思考空間の驚くべき拡張は、20世紀後半の3人の天才的なバレエ・コリオグラファーによって見事に反復されたと私は考えている。
クランコの『オネーギン』、マクミランの『マノン』、ノイマイヤーの『椿姫』の三作がそれだ。20世紀後半の三大バレエと呼ばれている。ここでも批評が創作に結実しているのだ。声としては聞こえないが、みな言葉を発している。それも個人的内面感情の複雑さが一作ごとに深まっているのだ。
その複雑な感情を、アメリカ人は英語で、ドイツ人はドイツ語で、フランス人はフランス語で、日本人は日本語で聴いているのだと思うと、展開している事態の複雑さに身震いしてしまうが、山崎が予告していたとおり、ここでは言語ではなく身体がじかに発語しているのである。
バレエが音楽をさらに深化させたきっかけは、クランコとマクミランが、ソビエトから亡命してきたヌレエフの『白鳥の湖』を見て一気に覚醒したことにあった、と思っていい。
ヌレエフはフォンテインとの『白鳥の湖』第一幕の最後に王子ジークフリートのソロを入れて、自分自身が踊ってみせたのである。チャイコフスキーを熟知していたからこそ出来た天才的な演出である。
教会のような公的空間、宮廷のような私的空間の踊りを経たその最後に、王子ひとりがひっそりと踊る個的内面空間を配置することで、『白鳥の湖』というお伽噺を、メランコリーに満ちた青年の悲恋物語に変えてみせたのだ。
クランコとマクミランは、子供の物語が、大人の恋愛劇に変わってしまったことに驚愕したのだと言っていい。ダンサーたちは一語も発することなく切実な会話を現出させ、観客にはそれがすべて理解できたのである。
クランコはまず自身の悲劇的バレエ『白鳥の湖』を創った後に、「四季」や「フランチェスカ・ダ・リミニ」などすべてチャイコフスキーの音楽で『オネーギン』という新作バレエを創ってみせた。
むろんプーシキン原作である。オネーギンが複雑微妙な心理の持ち主であることは言うまでもない。バレエには無理と思われるその複雑な心理劇を、クランコは見事な三幕のバレエにしてみせたのである。オペラ『オネーギン』をはるかに上回っていたと私は思う。オペラでは、歌われる言葉が意味を固定して、身体的な理解の邪魔をするのだ。バレエ『オネーギン』は逆に人間の無言の身体がいかに雄弁であるか立証して見せるのである。
観客はまずオネーギンとタチアナに共感し合体する。それがその後に言葉として降り注ぐのである。これが、ヌレエフの『白鳥の湖』に対するクランコの批評が『オネーギン』という創作バレエとして表現された瞬間である。
クランコの『オネーギン』に対する批評として、マクミランは『マノン』を、ノイマイヤーは『椿姫』を創作した。揶揄や僻みや当て付けや、要するにヨーロッパ近代文学の世界がそのまま舞台上に現出したことに観客は驚嘆し、それらがバレエという無言劇において成し遂げられたことに感動した。これは熟考に値する問題である。
ここで起こっていることはどういうことか。
私は、山崎が提起した、西洋現代思想の限界を刻印しそれを打破しようとする新しい視座が、そのままこの問題に対する根本的解決を示唆していると考えている。意識から身体へ、身体から宇宙へという視野の拡大が、いま示した音楽と舞踊の展開を理解するに必須の要件であると思えるからである。