山崎は、近現代において音楽や舞踊の場で起こったことを直接的に扱っているわけではまったくないが、結果的に、いま現に起こりつつある芸術批評の変容という事態を正確に描きだしているとしか言いようがないのである。

『リズムの哲学ノート』のほぼ最後の、まさにさわりの部分を引く。

「本稿では長い考察を一貫して、認識の主体を身体そのものと見なすとともに、認識の主体と客体の二項対立も乗り越えようと努めてきた。もちろん身体の営みに対応して現象が顕れるわけだが、この現象と身体とは主客の関係にはなく、両者のあいだに主導権の前後関係もない。

たとえば身体が『もの思う』ということは現象に目を凝らすことであり、耳を澄ますことだろうが、いずれも目や耳が思わずしてしまう反応であって、ここには能動性と受動性の前後関係はまったくない。目を凝らし耳を澄ますのは、何かが見えたり聞こえたりしたからであり、その逆もまた真であって、認められるのはいわば『誘いだされた能動性』というべきもののほかにはない。」 

「哲学の知をこのように解釈しなおしさえすれば、哲学の自由の問題はおのずからすべて解決されるのは、いうまでもあるまい。認識の主体が丸ごとの身体であるということは、認識の過程でたとえば理性と感覚の対立が起こり、感覚が理性の自由を妨げるといった恐れを根こそぎ排除してしまう。

また『する』ことがそのまま知ることだとすれば、認識の到達可能な世界は大きく広がり、知は暗黙知や純粋持続を直接に把握する自由を獲得するだろう。そして何よりも哲学はこの世界の根源的な原理であるリズムを感じとり、リズムとともに生きることによって、その働きを如実に知ることができるはずである。」

山崎がこの結論に達するのは、先に述べたように、西洋の思想の流れを辿ることによってであり、私が示した音楽や舞踊の具体的な例を辿ることによってではない。にもかかわらず、文脈にずれがあるとは、私にはまったく思われない。

あとは、山崎の視点から音楽や舞踊、美術をそのようなものとして受け止め、言語的記述を含めて、より多く五官のすべてを動員したかたちでの歴史が提示されれば良いだけのことなのだ。

むろん、そのような歴史はまだ存在しない。だが、いずれ出現するだろうと私は思っている。インターネットという媒体はそのために登場したのではないかと思えるほどだ。文字解説は数行、後は動画がすべてを見せ、すべてを聴かせる、というようになるだろうと思っている。

興味深いことは、山崎の『リズムの哲学ノート』が、国際的な視野に立って眺めれば孤立した仕事にはまったく見えないということである。

前世紀末に登場したアントニオ・ダマシオの『デカルトの誤り』をはじめ、ヤーク・パンクセップの『感情神経科学』、それらの思想史的な意味を、自身の仕事(神経精神分析)をも含めて解説した好著、マーク・ソームズの『隠された源泉』(邦訳=『意識はどこから生まれてくるのか』)など、神経科学者たちの一連の書物は、すべて意識から感情へ、精神から身体への方向転換を促すものであり──意識は感情から生まれたというのはいまや常識に近い──、山崎の著書に正確に呼応していると言っていい。

私にはこれが現在の思想界の潮流であると思われる。山崎はその只中に立っているのだ。表題の「山崎正和の未来」とはそのことである。