山崎は1960年代後半の段階で、すでに、佐藤栄作首相のブレーンとしてかなり有名だったのである。これがたぶんコンタクトを取らなかった、あるいは取れなかった最大の理由だったのではないかと思う。住んでいる世界が違うと思い込んでいたのだと言ってもいい。

その昔、吉田健一を介して、小林や河上が官邸に吉田茂首相を訪ねたという話があるが、山崎の場合はそれとはちょっと違っている。具体的に政治に関与していたのである。たとえば、全共闘を主とする学生運動対策として東京大学入学試験を1年中止するという方針を出したのは、山崎をはじめとする首相の若手ブレーンたちだという話は有名だった。

むろん、体制側に立つ知識人を避けたというわけではまったくない。現実の政治で忙しい人たちというのはそれこそ政治家である。山崎には、優れた評論を書く政治家という雰囲気があったということである。

事実、その後も、歴代首相の私的諮問委員会に名を連ねることが多かった。後にその印象がまったくの間違いであることに気づいたが、当時の私は、政治家や官僚に近づきたいという気持ちがおよそなかった。『文藝春秋』や『中央公論』や『世界』といった雑誌は、私には生臭かったのである。さらに言えば、たぶん軽蔑していた。俗事は語っても真理を語る手合いではないと思っていたのである。

付け加えれば、京都大阪神戸と東京の違いというか、遠さの問題もあった。重要な依頼には話し込む必要があったが、すでに新幹線の時代とは言え、まだそれなりの時間を要していたと思う。簡単に日帰りできる距離ではなかった。

この距離の問題をそのまま反映するかのように、岩波書店は東京大学の、中央公論社は京都大学の執筆者を起用することが多かった。

『世界』と『中央公論』だけではない。たとえば中央公論社の「世界の名著」シリーズや「日本の名著」シリーズの編者、訳者には京都大学、大阪大学の在職者が多く、それに対応する岩波書店の講座ものや全集ものには東京大学の在職者が多いという印象があった。興味深いのは、それがむしろプラスの効果を発揮していたということである。特色になっていたわけだ。

私は、京都大学にはなぜか好意を持っていたので──おそらく内藤湖南、宮崎市定といった学者に関心を持っていたので──、作田啓一、日高敏隆、杉本秀太郎、河合隼雄といった人々には登場していただいていたと思うが、距離が遠いことが非常に仕事をやりにくくしていたことは否めない。

しかも当時は、ファックスが一般化した程度で、パソコンなどという便利な物はなかった。山崎に登場を願うには程遠い環境だったのである。だが、もうひとつ大きな問題があった。問題としてはおそらくこのほうが大きい。

1970年代、私は演劇人をまったく知らないわけではなかった。寺山修司とは友人に近いほどの付き合いがあった。天井桟敷という場所があったことが大きかった。鈴木忠志もそうだ。大岡信が戯曲『トロイアの女』を書いて白石加代子主演で上演していたので身近だったのである。

鈴木はその後、1970年代半ばから、毎年、富山県の利賀村で世界演劇フェスティヴァルを催すようになった。私は少なくとも3回は見に行っていると思う。場所が文字通りの山の中である。

まさに遠路はるばるだが、大岡夫妻はもちろん、高橋康也、市川浩、山口昌男、さらに当時の岩波書店社長・緑川亨の姿もあった。また、朝日新聞の演劇担当記者・扇田昭彦がいた。

私に「朝日新聞」に寄稿する機会を作ってくれたのは扇田だったから、旧知の仲ということになる。作曲家の一柳慧や演劇評論家で翻訳家の松岡和子もいた。泊まり込みなので、会話がはずむ。演劇界の正確な縮図ではまったくないにせよ、その一部が現出していたわけである。