後日譚になるが、その後、私は1984年6月から1年半ほどコロンビア大学客員研究員としてニューヨークに住んでいたのだが、86年早々に帰国し、88年に『疑問の網状組織へ』という評論集を上梓した。

なかに「江藤淳とウイリー・ローマン」というエッセイが含まれている。ダスティン・ホフマン主演の『セールスマンの死』をブロードウェイで観た感想である。

ホフマン演じるウイリー・ローマンがあまりに見事で驚嘆したのだが、それが実在する誰かにそっくりであることに気づき、記憶を辿って江藤淳にほかならないことに思い至っていっそう驚いたということを書いている。世を慨嘆する身体所作がそっくりだったのである。そこから戦後社会論へと話を広げている。

礼儀上、江藤にも献本すると、礼の葉書が返ってきた。「今後、どこかの劇団で『セールスマンの死』を上演することがあったら指導に出向こうと思う」と書いてあった。感嘆した。新年会で若輩を叱りつけるだけの無粋ものではない、ということだろう。

先のエピソードだけでは江藤に対して一面的な記述になると思い、付け加えておく。山崎ふうに言えば、江藤にも社交的な面は十分にあったということだ。もちろん、新年会で若輩を叱るというのも、あるいは社交の一環だったのかもしれない。

山崎も江藤も、1960年代、70年代の若手スター知識人である。文壇の枠をはみ出していた。大衆社会はテレビの普及と並行して成立したと私は思っている。大正デモクラシーといい、昭和モダンといい、テレビ普及以前の話である。

数というか、規模が違う。大衆社会の到来は60年代で、当時、山崎の名も江藤の名も一般に広く知れわたっていた。実感として言えば、『ユリイカ』『現代思想』といったリトル・マガジン──原稿料が安い雑誌──の編集者が簡単にコンタクトを取れる相手ではなかった。

また、山崎も江藤もアメリカに渡っていることが多く、大手出版社でもなければ、簡単に連絡を取ることもできなかったと思う。したがって著者と編集者という関係にはなっていない。私が山崎正和に初めて会ったのは、1984年末か、遅くも85年早々だったのではないかと思う。場所は、忘れもしない、ニューヨーク西44丁目59番地のアルゴンキン・ホテルのロビーである。

連絡をいただいて、指定されたその場に緊張して伺った。格式のある昔風のホテルで、ロビーは他のホテルに比べてちょっと狭い感じだった。面会の理由は、私が84年11月に『メランコリーの水脈』で第6回サントリー学芸賞を受賞していたからである。

学芸賞全体の責任者である山崎は、事後ではあっても、受賞者に面会して品定めしておきたかったのだろう。私のほうには、いかに晴れの舞台とは言え、授賞式のために一時帰国するほどの経済的余裕はなかった。山崎は、ニューヨーク滞在の仕事の合間に、私との面会を入れてくれたのである。

山崎は、アルゴンキン・ホテルがいかに由緒あるホテル、つまりニューヨークの知識人にとって意味深いホテルであったか、教えてくれた。他にもいろいろ話したが、そのアルゴンキン・ホテルの話が忘れられない。緊張のせいで記憶が偏っているのだ。

思い返せば、1970年代、『ユリイカ』『現代思想』を担当していたにもかかわらず、なぜ一度もコンタクトを取ることがなかったのか、先に記した理由からだけでは説明がつかない気もする。

70年代後半の、『ユリイカ』の何かの特集に登場していただいたと思うが、担当は私の後に『ユリイカ』編集長を引き継いだ小野好恵で、彼は有名人好きで物怖じしなかった。逆に言えば、私は有名人が苦手で物怖じばかりしていたということになる。むろんそういう面がなくはなかったが、しかしそれだけではなかっただろうと思う。