<江藤淳、丸谷才一との思い出、そして山崎正和の特異性について。論壇誌『アステイオン』103号より「山崎正和の未来 意識から感情へ」を3回に分けて全文掲載。本編は中編> 

※前編:山崎正和の肉声を聞いて、小林秀雄を思い出した…「する」身体と「ある」身体と文明論 から続く

山崎正和の特異性

小林が人前でこっぴどく大江を叱っていたという話を、山崎と丸谷から聞いたむね書いたが、ついでに私にも同種の体験があったことを記しておく。

1982年早々『現代思想』の編集長を辞して青土社を退社した後の83年正月、鎌倉の江藤淳邸の新年会に出席するよう声をかけられた。電話をくれたのは当時『新潮』の編集長だった坂本忠雄で、おそらく江藤邸新年会の世話人を引き受けていたのだと思う。

断わるのも生意気だと思い、伺うことにした。最初の著書『私という現象』を上梓して2年、こっちは駆け出しの新人、向こうは大家である。立派なお宅で、40人は下らない客人がいたのではないか。もちろん物書きと編集者ばかりである。

私は江藤とは初対面である。にもかかわらず──ということは非礼を省みずということだが──、お招きに対するお礼を述べた後に、文芸批評のなかに政治的主張を織り交ぜるのは止めた方が良いのではないか、と、話したのである。とにかく、政治評論は止めた方が良い、と。

江藤は怒った。かなり声を荒らげて怒った。たいていの客は見て見ぬ振りだっただろうが、かなりの人数が、何事かとこっちを見ているのも分かった。江藤はひとしきり叱った後に、こっちに来いとばかりに奥の四畳半の茶室に連れ込み、一通り自身の政治的見解を述べて、釈放してくれた。

江藤の機嫌は直っていたと思う。口調が優しくなっていた。もとの広間に戻ると、当時『海燕』の編集長だった寺田博が心配げに「大丈夫か?」と声をかけてくれた。江藤は叱っているのだし、私の声は比較的よく通る。おそらく江藤と私の会話の中身を知っていたのである。

断わっておくが、私は左翼ではない。運動としてのアナーキズムに関心を持ったことはあったが、マルクスの著作についてはともかく、運動としてのマルクシズムに関わったことはまったくない。したがって、江藤の政治評論を批判したのは政治的な立場からではない。文芸批評に集中して欲しいと思ったからである。

『ユリイカ』の編集者として頻繁に会っていた大岡信がある時、私を試すように、「ぼくは左翼が嫌いだ、不人情だから」と言ったことがある。表現は人によって違ってくるものだと感心したが、違和感はなかった。「とすれば、左翼に芸術批評は不可能だということになるわけだ」などと考えていた。大岡の言葉には迫力があって、いまも鮮明に記憶している。

話を戻す。大江が小林に叱られたように、私も江藤に叱られたわけだが、私としては日頃感じ考えていることを忌憚なく話すほうが礼儀に適うだろうと思っただけで、そう思っていながら隠すのはかえって失礼だろうと考えたのである。

パーティで先輩が後輩を叱るのは文壇ではそれほど珍しいことではないことが、この例でも分かるだろうが、あるいは私の方はただ単純に生意気だったというだけのことかもしれない。

当時は多少話題にもなっただろうが、ほぼ半世紀後のいまでは話題にされることもないだろう。ただ、片山修の力作『山崎正和の遺言』などを読んで、多少なりとも山崎、丸谷、江藤の微妙な関係を知っている向きには関心があるかもしれないと思い、書くことにした。知る人のほとんどがいまや鬼籍に入っているに違いない。客のなかではたぶん私が最年少に近かっただろう。