小林は当時、雲の上の人である。並の文学者ではない。編集者としての私は当時きわめて若く、大学に進まなかったことも含め、仕事上、袋叩きになることが少なくなかった。山口昌男ふうに言えば、ヴァルネラブル、徴付きである。たんなる誹謗中傷で済むわけがない。

以上が、シンポジウム会場で山崎正和の声を聴いて、小林の声を思い出したということの背景だが、まさか半世紀を経て悔しさがぶり返したわけではない。声を聴きながら不意に、丸谷も山崎も、繰り返し小林を批判したのは、むしろ逆に小林に惹かれていたからではないか、と思ったからである。

いや、それどころではない。単刀直入、自分は小林に似ているのではないかと無意識裡に感じていたからではないか、と疑い、そのことをもっと追究しておくべきだったのではないか、と思ったからである。

中編小説『樹影譚』は丸谷の傑作中の傑作であると私は思っているが、背後に何ものかを想定するとすれば、柳田になるだろう、という密かな確信がいまもある。それは結局、さらに一歩を進めて、小林を介してということになるのではないか。山崎の声に小林の声を重ねて、そういうことを考えていた。

母と子の問題は、小林においても避けがたいのである。いや、いっそう大きいと言うべきだろう。丸谷も山崎も、父の問題、母の問題を、口にしたことなど──少なくとも私の前では──まったくなかった。ともにいわゆる私小説嫌いである。話題にすることをむしろ嫌っていたと言っていい。だがそれは、そういう問題がこの二人には存在しなかったということではない。たぶん、逆だ。

21世紀に入ってからの山崎の仕事は『社交する人間──ホモ・ソシアビリス』、『装飾とデザイン』、『世界文明史の試み──神話と舞踊』、『リズムの哲学ノート』と続く。文字通り文明論の系譜である。いま読み返しても、一作ごとに思索の深みが増していることは明らかである。

だが、言うまでもなく、小林の仕事もまた、最終的には文明論の試みにほかならなかったのである。小林は独創を狙い、山崎は普遍を手放さなかったが、標的は同じなのだ。小林のベストセラー『考えるヒント』は柳田を経過した後の文明論、とりわけ日本文明論のようなものだ。

山崎と小林は、文体においても方法においても、表向きこそ正反対ということになっているが、その内実は驚くほど近接していたのではないか。私は考察すべき最大のことを長く取り逃がしてきたのではないか。

山崎がとりわけ『世界文明史の試み』以後に提起した「する」身体と「ある」身体の問題にしても、先行者がいるとすれば、小林をおいてほかにいないのではないか、と私はいつしか考えていた。

中原中也が「気がついたら居たんですからね」という人間存在の不条理──意識発生の不条理──をあげつらって人に絡んだという話は有名だが、絡まれた最初の被害者が小林であったことは、出会いの時期や経緯から推して間違いない。それが彼らの、いまや伝説的な青春だったのだ。小林は中也の直観の鋭さに圧倒され、長くその呪縛から逃れられなかったのだと、私には思える。

中也の言葉は、「する」身体と「ある」身体を同じ身体のもとに感じ、考え、受け入れざるをえない人間存在の不条理を、詩人らしい一語で言ってのけているのである。中也は中也の流儀で小林を鍛えていたわけだ。同じような鍛え方が山崎の身に降りかかってもまったくおかしくはない。山崎もまた、受けて立ったに違いない。

私は基調講演を行うために『社交する人間』をも読み返していたが、もしこれを何かと対比して論じるとすれば、それは吉田健一の『ヨオロツパの世紀末』だったのではないか、というまったく新たな思いに襲われていた。

以前、読んだときにはそんなことは考えもしなかったのだが、今回は『ヨオロツパの世紀末』のことが念頭を去らなかった。ちなみに、『ヨオロツパの世紀末』は『ユリイカ』復刊第一号(1969年7月号)から1年間連載されたものであり、毎月の原稿受取りに神田神保町のレストラン「ランチョン」に通っていたのは、同号創刊数カ月前の青土社に設立と同時に入社した私だったのである。

知られているように、『ヨオロツパの世紀末』で吉田が主張しているのは、ヨーロッパは18世紀にその文明を完成したのであって、その後は、表面の繁栄とは裏腹に内実は衰退したのであり、19世紀末はその18世紀の残照にほかならないということである。

ここでは社交──すなわち付かず離れずの人間関係──が文明の内実なのだ。吉田は河上徹太郎の弟子であり、河上が小林の盟友、というよりほとんど兄弟分であったことはあまりにも有名である。小林は吉田にとって伯父のようなものだったわけだ。