私は、『ユリイカ』に携わる2年前の1967年、刊行されたばかりの『万延元年のフットボール』を盲腸手術後の病院で読み、その神話的世界の構築に感心していた。中断できず徹夜で読み終え、「何だ、日本にだって小説があるじゃないか」と思ったのである。
大江は、柳田を参照しつつ、レヴィ=ストロースの構造主義人類学を小説化していると強く感じた。私は20歳を越えるか越えないかの、小説と言えばまだ翻訳もののみという年頃だった。
マルクスを読み終えた後に──すなわち「マルクスの悟達」を書き終えた後に──、おそらくそのマルクスへの批判を反芻するために、小林は柳田に向った。その機微は、数年後、創元社顧問として立案した創元選書の編集方針に露骨に出ている。
細々した例を並べるのは差し控えるが、さながら経済学から民俗学へ、である。吉本隆明も基本は同じだ。『言語にとって美とはなにか』から『共同幻想論』への移行にそのマルクス主義からの密かな転換を見て取ることができる。
いまにして思えば、小林は1930年代の、吉本は1960年代の、時代思潮のきわめて真摯な表現である。山崎は同じことを1950年代──つまり20歳前後──に独自に体験していたと思えばいい。マルクス体験後にその批判に転じた点では同じなのだ。
だが、柳田ではなく世阿弥へ向ったところがまったく違う。いわば習俗の身体ではなく修練の身体に向ったのである。独創であり独走である。
遺著と言っていい『リズムの哲学ノート』のほぼ最後に登場する『花鏡』が読者を感動へと誘うのは、その人生の驚くべき一貫性である。むろん、一貫性が明らかになるのは没後において、それを見抜く眼が成長してからのことである。
マルクスから柳田へ、大江もまた同じ軌跡をなぞっていると私は思った。小林にしても『万延元年のフットボール』には感心しただろうというのが、私の推測である。だが、『洪水はわが魂に及び』には失望した。大江は『万延元年のフットボール』で自分が何をしたのか分かっていなかったのではないかと疑った。
したがって、小林が人前で大江を叱責したのは──小林も同じ印象を持ったに違いないと私は確信していた──そのことではなかったのか、と、山崎と丸谷の話を聞きながら思ったのだが、二人にはそのことは伝えなかった。いま少し考え、その考えをさらに深めることが必要だと思ったのである。
小林秀雄に電話したというのは雑誌特集の扉に写真を使う許可を得るためである。むろん事前に手紙に用件を記し、ご意向を確認したいので、何日の何時頃にお電話いたします、と、書いて、投函し、そのうえで電話したのである。新宿ルミネの階段踊り場の公衆電話だった。忙しくて、出掛け仕事の合間にするほかなかったのである。
「あ、ぼく、小林だよ、手紙読んだよ、もちろん使っていいよ」と、歯切れの良い高音の声が返ってきた。もちろん、有難うございます、それでは失礼いたします、とでも言っただろうが、私はその場にへたり込んでしまっていた。
そして、ああ、この人だったらインタヴューを申し込んでも応じてくれたに違いない、もったいないことをした、という思いだけが湧きあがってくるのを必死に抑えていた。まさに痛切な思いだった。
しばらくして、会話を反芻し、声質と気風は澁澤龍彦そっくりだったな、江戸っ子だけど山の手風ということか、と思った。が、それにしても、呼び出し音、一回か二回で、自身、電話口に出たということは、と思うと、いっそう悔しさが増した。
インタヴューを申し込めば良かったという思いは何度もぶり返してきた。とくに、高見沢潤子が兄・小林秀雄の思い出を書いた本を読んで、『ユリイカ』特集号を話題にしていたこと──目を通していたのである!──を知ってからは、惜しいことをしたという思いでいっぱいになった。が、それが実現していたら嫉妬で殺されただろうな、とも思った。