<学問における西洋中心主義を相対化し、東アジアの知的伝統を再評価する必要性について>
『アステイオン』104号「漢字・漢語・漢文──文明から考える」特集は各分野の錚々たる方々によって執筆されており、とても読みごたえがあるだけでなく、蒙(もう)を啓(ひら)かれるところも多々ある。
「漢字・漢語・漢文」、この3つのキーワードが並ぶだけで普通は古色蒼然と思われるが、今回の特集を読んで全くそんな感じがしなかっただけでなく、とても新鮮な感じさえした。
「魯迅」という漢名の読み方から書き始められた金文京氏による論考「魯迅はロジンかルーシュンか──二十一世紀東アジアの漢字問題」、モンゴル語にある和製漢語をめぐるフフバートル氏による考察「和製漢語はどこへ──モンゴル語の近代化」、漢詩文というメディアへの第一人者・齋藤希史氏による論評「漢詩文というメディア──近代東アジアの言説空間」、また世界における広東語の歴史と現状(飯田真紀「世界の広東語──漢語のグローバリゼーション」)、船山徹氏による「仏典と漢訳」、さらに今野真二氏と加賀野井秀一氏による漢字と日本語との関係等々、門外漢の筆者にとっては、実に刺激的な論考ばかりで、読んで目から鱗が落ちるような感じがした。
それだけではない。筆者の問題関心から言えば、この特集は日本だけでなく、東アジア、特に中国にとっても重要な問題提起をしたと言いたい。
特集のサブタイトル「文明から考える」に、編者である岡本隆司氏の真意を察知しただけでなく、日本を代表する書家石川九楊氏と東洋史の研究をリードする岡本氏との対談「漢字文明圏のなかの日本語」が最もこの特集の主旨を体現していると考える。
近代に入ってから、西洋の衝撃を受けた日本においても、漢字の本家の中国においても漢字文明が衰退したという事実は周知のとおりである。確かに当時の東アジアにおける急務として、西洋文明を学んで、富国強兵なしには、亡国の危機に直面することは誰の目にも明らかであった。
そういう意味では、福沢諭吉が『文明論之概略』の中で唱えたとおりである。性急なところがあったことや、西洋文明への理解が浅いところもあっただろうが、当時としては、ある意味では仕方がなかった。西洋列強の砲艦外交に対しては、砲艦を以て対処するしかなかった。
これに関しては、後に仲たがいした勝海舟も福沢も異論はなかった。魯迅のような中国を代表する文豪でさえ、中国の書物はできるだけあまり読まないように、或いは読まずに、外国の書物を読むように、と若者に忠告したほどである。時代の喫緊の課題があるから、優先順位をつけざるをえなかった。
しかし、明治維新から既に150年余り経っている。中国の五四運動からも1世紀以上経過している。今もなお当時の発想のままで本当に良いのだろうか。今日において冷静に総括し、そろそろ修正すべきところは修正するほうが東アジア全体にとって必要ではないだろうか。
なぜなら、今日でもそのような価値観を引きずっていたら、かなり深刻な問題をもたらす恐れがあるからである。これは石川氏と岡本氏が対談の中で指摘するように、それは文明の問題だけでなく、ある意味では日中関係の根底にまで影響する問題でもあるからである。