<もし漢字・漢文が一台のスポーツカーだったら――。文字を持たなかったヤマトの人々が出合った漢字と思考実験>
『アステイオン』104号の「特集 漢字・漢語・漢文──文明から考える」を読んだ。各学界を代表する一流の書き手のみなさんが、専門知識を分かりやすくかみ砕いてご執筆くださり、たいへんエキサイティングな特集となっていた。
読みながら、無文字社会であったヤマトの人びとの前に漢字・漢文がもたらされた時の衝撃、またその後のヤマトの人びと・日本人の格闘ぶり、そして現代社会における日本語多文字文化のカオス、そういったありさまに思いを巡らすうちに、妄想が膨らんで、SF風、ファンタジー風の仮想(ヴァーチャル)日本文字史のようなものが浮かんできた。あやしうこそ物狂おしき妄想として読み流していただければ幸いである。
漢文ポルシェ
文字を持たず、「文」という概念すらなかったかつてのヤマトの民が漢字や漢文を目の当たりにした時の当惑、不審、戦きは、現代日本の私たちにはもはや想像すべくもないのであるが、例えば足で歩き回るしか「交通」の便を持たなかった人びとの前に、突然ポルシェやフェラーリやベンツが現れたとしたらどんな気持ちだろう、などと夢想してみたのである。
ヤマト民にとっての漢字・漢文というヴィーイクルを、仮に「漢文ポルシェ」と呼んでおこう。
漢文ポルシェに乗り込むと、何もない野原に、壮麗な高速道路がどどんと見えてきて、その高速道路をどこまでも走り続けることができるのである。それは海を越えて外(と)つ国につながるばかりでなく、過去へと遡ることもできれば、未来へとつながることもできる。
この漢文ポルシェを使って、四書五経やら大蔵経やら、恐ろしい数の宝物が運び込まれてくる。古代のヤマト民にとっては、魔法にも等しい存在であったろう。
ただしこの漢文ポルシェ、ただの「交通手段」ではない。それは乗り手の脳と直結して、その知性や感性に直接働きかけてくる。乗り手は漢文ポルシェと「シンクロ」しなければ、自由に操ることができない。まるでエヴァンゲリオンである(ここがSF風です)。
つまり乗り手を選ぶので、誰もがすぐに乗りこなせたわけではないのだ。当初は恐らく、朝鮮半島や大陸からやってきた「渡来人」に運転してもらって、ヤマトの民は助手席に載せてもらう程度ではなかったか。
しかし古代のヤマト民の中には、大胆にも漢文ポルシェを自ら操縦してやろうという人も出てきて、「聖徳太子」(その実在についてはややクエスチョンが付くが)や吉備真備や空海といった天才も現れた。とりわけ空海のシンクロ率は本家の中国人も舌を巻くほどであったらしい。
魔改造に次ぐ魔改造
さらに驚くべきはその後のヤマトの民の独創性である。漢文ポルシェの性能に気づいてからは、そこにとんでもない「魔改造」を施していく。
「訓」読みを発明する、漢字の音訓を利用して「仮名」を作る(万葉仮名から平仮名、片仮名まで)、漢文をまるごと日本語として読んでしまう「漢文訓読」を完成させる、訓読を前提とした漢文の「和化」(ローカライズ)を進めて、「候文」という究極の変体漢文を作り出してしまう。
もはや、もとの漢文ポルシェの面影をとどめないほどに改造されたヤマト製ヴィーイクルが、ヤマトの国を駆け巡ることになる。