すでに「比較言語学」における中国語と日本語との語族のちがいについては触れておいたが、「言語類型論」的に見ても、両者は「孤立語」と「膠着(こうちゃく)語」とのちがいとして対置される。
たとえば、中国語では「我愛她(ウォーアイター)」と書くと、「私は彼女を愛する」という意味になるが、そこには「私」「愛」「彼女」という概念がゴロゴロところがっているだけで、「私は彼女を」といった主題や目的を表わす記号はどこにもない。文法関係のほとんどは語順でしか示されないのである。
そのためこれを「她愛我」と置けば、今度は「彼女が私を愛する」ことになる。まさに、こうした概念本体だけが孤立したままころがっているからこそ、この言語が「孤立語」と呼ばれているわけだ。
これに対し日本語は、「私は彼女を愛する」のように概念本体に「テニヲハ」がついて文法関係を示すとともに、それら概念を膠(にかわ)のようにつないでいる。「膠着語」と呼ばれるゆえんである。
おかげで日本語は、この「テニヲハ」さえついていれば、語順は自由自在となる。「私は彼女を愛している」「彼女を私は愛している」「愛しているよ、私は彼女を」「愛しているよ、彼女を私は」……。
つまるところ、当初より中国語を自分たちの表記法として借りてきたわが先祖たちの選択は、こうした「孤立語」の表記法を「膠着語」に転用しようとしたことの当然の結果を背負うのであって、後の世に、その残余の部分を補塡(てん)する大仕事が残されていたことになるだろう。
というわけで話をもとにもどすと、わが先人たちは、この日本語に特有の「テニヲハ」などの部分を、心覚えとして「人履道」のかたわらに付記しておいた。また、「人履道」も日本語の語順では「人道履」となるべきだから、「履」と「道」とを反転させて読むしるしをつけておきたい……等々。
これが現在、私たちが学校で習う漢文の「返り点」や「送り仮名」の起源となる。こうして、おおよそ次のような文章の形が出来あがる。

そこからは、やがていっそのこと、漢字も日本語慣用のものに替え(人履道→人踏道)、語順も中国語のS+V+O方式から日本語流のS+O+V方式に入れ替え(人踏道→人道踏)、添え書きの仮名も本文中に取り込めばいいのではないかということになってくる(人ガ道ヲ踏ム)。
こうして「和漢混淆文」もしくは「漢字かな交じり文」と呼ばれるものが誕生する。その後、「漢字ひらがな交じり文」も「漢字カタカナ交じり文」もさまざまなスタイルをとって乱立したようだが、明治期以降に主流となっていた「カタカナ交じり文」が、今次大戦後にその地位を「ひらがな交じり文」にゆずり、ついには「人が道を踏む」と、めでたく現代日本語の標準文が出来あがることとなる。
加賀野井秀一(Shuichi Kaganoi)
1950年高知市生まれ。中央大学文学部仏文科卒業後、同大学院、パリ大学大学院で学ぶ。専攻はフランス現代思想、哲学、言語学。著書に『メルロ=ポンティ──触発する思想』(白水社)、『20世紀言語学入門──現代思想の原点』(講談社現代新書)、『日本語は進化する──情意表現から論理表現へ』(NHKブックス)、『感情的な日本語──ことばと思考の関係性を探る』(教育評論社)などがある。