そこへイランのイスラム革命が来て、3度目の石油ショックが起きた。革命勢力は帝国主義と闘って完全に主権を取り戻すと約束した。53年に石油の国有化を頓挫させ、親欧米の王制を復活させた米英主導のクーデターの遺産を払拭し、新たな反帝国主義の地域同盟を構築するのが目的だった。
革命後のイランは国民に反帝国主義を教えた。首都テヘラン市内にはガンジー通り、ネルソン・マンデラ通りなど、帝国主義と闘った世界の偉人たちの名を冠した街路ができた。
このときも、欧米諸国の対応は過去の石油ショック時と同様に素早かった。アメリカはすぐにイラン産原油の輸入を停止した上、イランの公的資産を凍結。西欧諸国も数年後には同調し、イランを地域不安定化の主因と位置付けた。イラン・イラク戦争(80〜88年)に際してはイラクに武器と資金を供与した。
これと並行して、IMFの構造調整策は世界経済における統治の手段として定着した。債務問題を抱える途上国では経済特区が構造調整と結び付けられ、輸出品の生産を促す新自由主義的な免税措置が導入された。結果、途上国では賃金を抑制し環境への配慮を無視する「底辺への競争」が始まった。
80年代には欧米諸国が内政にも新自由主義を取り入れ、福祉国家を縮小し、規制緩和を推進した。第三世界の深刻な債務危機も、この流れを止められなかった。そうして新自由主義は世界に広がり、世界の経済秩序を西欧とアメリカが支配する構図が固まった。
※この記事は前編です。後編は5月14日にアップロードされます。
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