スエズ危機の時と同様、こうした措置は反帝国主義と資源主権を掲げる政治の流れに乗っていた。南米で石油資源の国有化を急いでいたベネズエラは中東の産油国と連帯し、これは「石油革命」だと言った。
むろん、欧米諸国から見ればそれは「石油危機」だった。既に石炭に代わって石油が主要エネルギー源となっていたから、各国の経済は大混乱に陥った。かつての植民地が徒党を組んで自分たちの日常生活を脅かすという事態に、欧米の人たちが衝撃を受けたのも間違いない。
しかも71年にはアメリカが金本位制から離脱し、ブレトンウッズ体制は実質的に崩壊していた。金融市場は不安定化し、欧米諸国では工業の衰退が顕著で、失業が増加していた。一方で、74年には途上国77カ国グループ(G77)が「新国際経済秩序」を宣言し、資源主権の主張を強めていた。
対抗上、欧米諸国も連携を深めた。後にG7となるG6(主要6カ国)や国際エネルギー機関(IEA)などの新組織をつくり、国連の枠外で経済政策とエネルギー安全保障を確保しようとした。そしてIMFや世界銀行を通じて産油国の莫大な「ペトロダラー」を欧米の銀行に集め、その資金を途上国に「ひも付き」で融資する仕組みをつくった。
いわゆる「構造調整」の誕生である。76年以降、IMFと世界銀行は融資の実行に当たり、さまざまな構造調整策を課すようになった。結果、債務国は通貨の切り下げや財政の緊縮、賃金の抑制などを強いられる一方、資源主権の確立や経済多様化の道は閉ざされることになった。IMFや世界銀行の要職は欧米諸国が独占し、アフリカやアジア、中南米諸国の発言権は皆無に等しかった。植民地時代や、57年ローマ条約の時代と同じだ。