映画のある場面で、憔悴したウィルはテムズ川のほとりで水面を見つめ、「生きるべきか死ぬべきか」とつぶやく。オファーレルの最も大胆で冴えた趣向は、シェークスピアを役者として舞台に上げた点だ。『ハムネット』の彼は憂い顔の王子ではなく父王の亡霊として、すなわち死を想う者ではなく既に死を経験した者として舞台に立つ。

ハムネットが双子の妹の身代わりとなるように、シェークスピアは息子と立場を交換する。オファーレルが小説で書いたとおり、息子の死を受け入れ、わがものとしたのだ。

ただしこれはあくまでもアグネスから見た解釈だ。原作は主にアグネスの視点から物語が描かれている。夫の仕事のことをアグネスが曖昧にしか理解していないからこそ、原作における演劇人としてのシェークスピアに対する言及が曖昧なのだ。

ある場面でアグネスは、夫と仲間たちが遠く離れたロンドンで「大昔に死んだ王様の歴史劇を上演したばかり」だと語る。だがそれが何という劇で、何という王の話なのかは語らない。つまり、彼女は舞台を全く見ていないわけだ。

アグネスにも芝居のチラシを読める程度の教養はある。だが、どうして息子とほとんど同じ名前がそこに書かれているのか、そして夫がその名を選ぶことで何を意味しようとしたかは分からない。だからこそアグネスは自分の足で劇場に向かい、何が起きているか理解しようとするのだ。

原作のほうは、この場面で物語がほぼ終わる。だが映画はここからがクライマックスだ。小説同様、私たちはアグネスの視点から劇を見ることになるのだが、文章を読むのとではだいぶ味わいが異なる。