例えるならばマイケル・ジョーダンの伝記映画で、試合のシーンを全て地元のアマチュアバスケチームの映像で済ませるようなものだ。

それでも『エイミーのすべて』に至るまで映画が過ちを改めないのは、なぜなのか。

ドライに見るなら俳優の虚栄心、「歌える」ことを証明すればオスカーも夢ではないという下心のなせる業だろう。寛大な見方をすれば、リアリズムの追求かもしれない。口パクが不自然だと、観客はそこに気を取られてしまう。

とはいえリアリズムが動機なら、致命的に的外れだ。俳優が歌っても、撮影で「ライブ録音」した音源がそのまま採用されることはまずない。

何よりワインハウスの伝記映画でリアルを追求するなら、ワインハウスがワインハウスらしく聞こえなければ本末転倒ではないか。

声というのはパワフルで神秘に満ちていて、おそらくは人間が持つ最も原始的な創作のツールだ。私たちが偉大な歌手に引かれるのはその声の精妙さのためであり、声は特定の人物と結び付いている。

俳優に伝説的シンガーの歌を再現しろと言うのは、猿まねをさせるのと同じこと。それではその歌手がなぜ偉大なのかを誤解することになる。

私たちがレイやアレサやエイミーを愛するのは、彼らが決してほかの人のように歌わなかったからなのだ。

©2024 The Slate Group

Back to Black

Back to Black エイミーのすべて

監督/サム・テイラージョンソン

主演/マリサ・アベラ、ジャック・オコンネル

日本公開は11月22日

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