<かつて見たことのある、「懐かしい景色」が再び繰り返されている。令和にも化けて出た「平成の亡霊たち」とは?>

※8月1日刊行の『長い江戸時代のおわり 「まぐれあたりの平和」を失う日本の未来』(池田信夫氏と共著、ビジネス社)から、「まえがき」を一部改稿して掲載する。

始まってわずか3年強の令和が、終わったはずの平成に不思議と似てきている。

たとえば2022年の2月にウクライナ戦争が始まり、TV番組のゲストは国際政治学者など軍事・安全保障の専門家に埋め尽くされた。このとき、久しぶりに①1991年の湾岸戦争(原因となるイラクのクウェート侵攻は前年)を思い出した人も、年長者にはそれなりの数いたのではないかと思う。

今年と同様に平成の頭にも、海外での侵略戦争の発生に際して「日本の平和主義は本当に今のままでよいのか」が問われていた。

もう少し長い視野をとると、実は平成末から令和にかけて社会で生じた変化の多くも、昭和から平成への移行期に一度起きたことの「繰り返し」になっていることに気づく。

昭和天皇の死去にともない元号が平成に改まったのは1989年の1月だったが、②2月に死去した手塚治虫の遺著である『ガラスの地球を救え』は4月に刊行され、エコロジーのブームを起こした。

一方で令和の2年目にあたる2020年にも、気候変動の観点から資本主義を批判する斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』がベストセラーになっている。

あるいは平成末期に #MeToo のハッシュタグを使ったSNSでのセクハラ告発運動が起こり(起源にあたる米国では主に2017年以降)、令和にかけて第四波と呼ばれるフェミニズムのブームが生じた。

実は③1989年、平成最初の新語・流行語大賞を受賞したのも「セクシャル・ハラスメント」だった。やや遅れて91年にはアメリカでも、最高裁判事候補の男性をかつての部下が告発したアニタ・ヒル事件が広く報じられ、「セクハラ」の概念は世界の日常に定着してゆく。

ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)の追求による、歴史像の全面的な見直しも共通する現象である。④1992年はコロンブスのアメリカ上陸500周年だったが、この時は「先住民に対する侵略者を顕彰してよいのか」との批判が上がり、論争を呼んだ。

近年では2020年に昂揚したブラック・ライブズ・マター(BLM:黒人の人権擁護)の運動が、白人を中心として描かれてきた既存の米国史像にもノーを突きつけ、アメリカ国内で文化戦争に発展している。

これらの①~④の現象がいま繰り返されていることの背景には、なにがあるのだろうか。それは、「これだけは絶対に正しい」と信じられてきた思想や社会通念の崩壊である。

言うまでもなく日本で平成が始まった1989年は、国際的にみると東欧諸国の自由化にともない「冷戦が終わった」年だった(ソ連の崩壊はやや遅れて91年)。これにより冷戦下で西側の知識人や学生層にも大きな影響を与えてきた、マルクス主義の権威は失墜する。

体制批判的な言論をリードしてきた論調がまた挫折