これ以降、スクリーンには3人の実の家族と4人の俳優が入り代わり立ち代わり現れる。なぜゴフランとラフマは家を出たのか。なぜ狂信的な信仰に埋没していったのか。オルファとエヤとテイシールは自らを演じながら葛藤する。4人の俳優も一緒に悩む。

観ながらあなたは混乱する。この人は三女なのか。いや次女だったかな。ならば俳優だっけ。いや実際の三女だ。泣いている。演技がつらいのだろうか。監督がカメラの後ろから声をかける。つまりこれはドキュメンタリーだ。

巨匠アッバス・キアロスタミだけではなく、モフセン・マフマルバフやジャファル・パナヒなど、イランの映画監督たちはドラマとドキュメンタリーを融合させた作品を作り続けている。

表現に対する規制が厳しいイランならではと思いたくなるが、自らが自らを演じて、プロの俳優もそこに当然のように配置するイスラエルのアビ・モグラビや台湾の呉乙峰(ウー・イフォン)もこの系譜だ。

イスラエル・パレスチナ問題に切り込むモグラビの映画『ハッピー・バースデー、Mr.モグラビ』を山形国際ドキュメンタリー映画祭で観たときは、ドキュメンタリーとはこれほど自由でいいのかと衝撃を受けた。辞書的には「虚構を加えない事実記録」と定義されるドキュメンタリーだが、無理に自らをカテゴライズする必要はない。だって作品なのだ。

救いようのない現実が虚構へと侵入
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