王塚神社ではこの踊りの由来として、たにしと村の庄屋の娘についての伝説が伝えられているが、ほぼ同内容の話が新潟方面でも収集されたりもしている(『昔話研究』第11号、1936)。
薬専の《たにし踊り》も、薬専発祥というわけではなく、民間で歌われていた唄が薬専で独特の発展を遂げたものとみたほうがよいようだ。
じっさい、「田螺殿」で検索をかけてヒットするもののなかには、九州地方を中心に手鞠唄、子守唄などのわらべ唄として歌い継がれていた実例がいくつもあり、歌詞の内容も薬専のものと相当部分一致している。
こちらは竹久夢二や北原白秋が編んだ童謡集にも収録されているから、薬専の《たにし踊り》とはだいぶ違う印象だ。
なかでも独特の展開を示したのが鹿児島であった。戦前には「学舎」と呼ばれる江戸時代からの伝統をもつ私学校があり、《田螺殿》がそこを場として歌い継がれたのだが、特に「妙円寺まいり」という行事で往復40キロを皆で徹夜で歩いて参詣する際に歌われ、眠気をさます切り札となったらしい(日本放送協会鹿児島放送局編『さつま今昔』、1968)。
この「妙円寺まいり」は今なお鹿児島の三大行事のひとつとして続いており、「県立霧島青年の家」で行われた郷土教育実践事業では「参加者が郷土を知り友情を深め」るために《田螺殿》を斉唱した、というような話も出てくるくらいだから(『鹿児島県教育委員会月報』1985年1月号)、マッチョで蛮カラな薬専の奇妙な踊りとはだいぶイメージが違うようだ。
《たにし踊り》の伝播の広がりの大きさには、背景としてこういう別の水脈の存在も見逃すことができないのである。
ほかにもおもしろいことはたくさんあるが、ともかく自宅のパソコンの前に座っているだけで、これだけのデータが手に入るのである。
その存在すら知らなかったような史料が大半で、自費出版の回想記、業界紙に掲載されたエッセイなど、全文検索しなければ絶対に見つけようがなかったようなものも多い。
何より特筆すべきは、運動会や対校試合の応援など、学校生活でのシーンや忘年会、団体旅行、軍隊での演芸会など、この《たにし踊り》が人々の生活の「現場」でどのように受け止められ、継承されてきたかを知ることのできる史料、つまりその「受容」の局面にかかわる多種多様な史料が得られたということである。
