1935(昭和10)年の『日本薬報』には東薬の生徒たちが全校で伊豆大島に一泊旅行に出かけたときに行列を繰り出し、「一夜波浮の町を驚倒させた素晴らしいデモンストレーションをやった」などと書かれており、学校を象徴する「名物」にもなっていたようだ。
医学部や病院の事例もたくさん出てくる。関係の近さを考えれば当然でもあるが、よくみると、薬学部が発信源で、それが医学部へと伝播していった様子がわかる。
じっさい、北海道の函館中央病院の医師が宴会芸でのおはこにしているのできいてみたら、遠軽病院に勤務していた折に東薬出身の薬剤師に教わったものだったなどという話も出てくる(阿部竜夫『函館今昔帳』、1959)。こちらの事例はほとんどが宴会の際などのかくし芸としてであり、そのような場を通して薬学部の外へも広がっていったようだ。
医学部以外にも、旧制高校、高等専門学校など多くの学校に広がった形跡があるが、各県の設置していた学生寮がその場になったりもしたらしい。
長野県が東京に設置した「長善館」で行われた記念祭には、「早稲田英文科の学生の英語劇」や「諏訪の山浦連の盆踊り」等とならんで「たにしどの」が余興の出し物になっていた(宮坂源兵衛『怒って笑って五十年』、1966)。こういう場で薬専生の踊った「タニシ踊り」が外へと広がっていったことは容易に想像できる。
興味深いのは、そのような外への伝播の最も大きな機会を提供したのが戦争だったということだ。
フィリピン・ルソン島バギオの野戦病院に勤務した東薬卒の薬剤師は入隊時の歓迎会で、母校の応援団の踊りである《たにし踊り》を踊って大喝采を浴びたと書いている(宍倉公郎『続 イフガオの墓標』、1980)。
満州や南方などの戦線に召集された薬専出身者が宴会などで座興にこの踊りを踊った話はほかにもいくつもあり、《たにし踊り》が戦後になって、薬専以外の場に広がる機会になったと推測されるが、この種のものが抑圧されたと考えられがちな戦時下の環境のなかで水面下で広がっていった状況は実に興味深い。
驚いたのは福島県富岡町の事例で、何と王塚神社という神社で伝承され、毎年旧暦8月8日の大祭に氏子青年会員によって踊られているという(『富岡町史』第3巻、1987)。
「敗戦後の殺伐な世相の中で、僅かなりとも明るさを取り戻そうとして、富岡保線区広野線路班の若い人達によって、踊られたのが最初」で、1946(昭和21)年の発祥という。おそらく直接には薬専関係者からの伝播だが、背景にはたにしという生き物をめぐる民間伝承の存在があるようだ。
