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ルビコン川を渡る、日本のジャーナリズム...SNS時代に「客観報道」は必要なのか?

2025年08月27日(水)11時00分
佐藤卓己+武田 徹(構成:木下浩一)

武田 同感です。しかし、一人称でなければ書けないものがあるのも確かです。記者自身の判断が文章に入り込むことでしか表現できない真実もあるからです。

ただ、現在進行中なのは「あなた」の氾濫で、つまり二人称の相手に訴えるSNSや動画が、受け手に対して大きな訴求力を有しています。二人称を用いる語りかけは人を共感させる力が強いが、二人称の連鎖でつながる共同体の中で閉じてしまうことがある。特に日本のような同質性の高い社会では、その傾向が強くなりがちです。

そんな事情を思うと、一人称の記事の議論が「署名の有無」に直結されてきた点は問題と感じています。人称別に記事の語りをどう分析するか、といった視点が抜け落ちていました。

佐藤 私はかねてから空気を読む「世論」(せろん)よりも他者と討議する「輿論」(よろん)の必要性を強調してきました。「世論」、つまり感情ではなく、理性に基づいた「輿論」の必要性です。

しかし、現在のメディア状況は、新聞記事を含め、あらゆるものが「動画化」しています。動画への反応は、快か不快か、すなわち情動的です。

この動画の世界にも、武田さんの訴える「アカデミック・ジャーナリズム」、つまりこれまでのテキストベースのジャーナリズムの論理で踏み込んでいけるとお考えですか。

武田 テキストベースのジャーナリズムは一人称と三人称を駆使して、二人称同士で語りかけ合う私的な二項関係の中に議論を閉じ込めないように働きかけられるのではないでしょうか。テキストベースのジャーナリズムをモデルにして、動画メディアを再設計していく可能性もあると思います。

日本における「客観報道」

武田 今回の特集で、私は論考「SNS時代のジャーナリズム」の中で玉木明さんに言及しました。

彼の著書『ニュース報道の言語論』(洋泉社、1996年)では、「無署名性言語」という概念が登場します。日本の新聞報道に代表される、一人称の主語を持たず、主体的判断を含まない三人称に徹した言語表現のことです。署名化が進んでも記事の文体は無署名時代と変わらない、依然として日本の報道は無署名性言語を用いているのだと玉木さんは書いています。

無署名性言語を用いることの問題は、報道が社会通念の「代弁者」となってしまう点にある。「この人が犯人だ」と記事が書けば、誰もがそう考える客観的事実が示されたとみなされ、読者がそれを信じ込むことにつながってしまう。玉木さんは、その危険性を防ぐためにも「一人称の回復」を主張しました。

記者が一人称で語れれば社会的通念に訂正や修正が加えられる。こうして事実を端的に示す客観報道に適した三人称の文体と、記者が主体性を発揮できる一人称の文体を使い分けるべきだ、と。

佐藤 しかし、それは、「客観報道があり得る」という言語論的転回以前の前提に立った議論ですよね。歴史学の研究者と比較しても、現実のジャーナリストは、必ずしも「文字で書かれた記事に客観性があるのか」という根源的な問いに、正面から向き合ってこなかったように思います。

武田 日本のジャーナリズムは特にその傾向がありますね。本特集に「日本型「報道倫理」論を越える」を寄稿してくださった澤康臣さんが昨年翻訳した、米国のビル・コバッチとトム・ローゼンスティールの『ジャーナリストの条件』(新潮社)には、「客観報道は、検証の果てにある」と書かれています。客観はプロセスの先に現れるのだ、と。

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