アインシュタインはけわしい表情でその場を去り、声をかけてきたストローズを無視する。オッペンハイマーは再び全面核戦争を幻視する。そして映画のラストカットは、池の波紋を見つめていたのだが、耐えられないかのように目を閉じるオッペンハイマーの顔である。
池の水面の波紋、水爆を積んでいると思われるミサイルが飛び交う様子、爆撃機のコックピットらしきところに座るオッペンハイマー。そしてオッペンハイマーがアインシュタインに言い放ったあのひと言。「私たちはそれをやってしまったと思います」。
これは「私たちはすでに世界を破滅させてしまったと思います」という意味だ。
原爆の爆発が大気全体を引火し、世界を破滅させることはなかった。しかし自分たちの原爆開発は結局、世界を破滅させかねない、水爆による核軍拡競争の引き金を引いてしまった──。オッペンハイマーはアインシュタインにそう言ったのだ。
オッペンハイマーが広島への原爆投下直後の演説の間に見た幻視について批判する人がいた。たとえば若い白人女性の皮膚が「きれいに」剝がれている、と。それは、浅はかなオッペンハイマーには、原爆投下によって地上で起きたことを抽象的にしか幻視できなかったからではないか。
その女性が白人であること(実際、彼女を演じたのはノーランの娘である)に不満を述べる人もいた。それは、オッペンハイマーは「ヒロシマ」だけでなく、その後に核軍拡競争を経て起こる、世界的な全面核戦争まで幻視してしまったからではないか。
世界レベルの核戦争が起これば、当然ながら白人も犠牲になる。つまりこの映画は『関心領域』と同じように、「見せないことで見せる」という映画芸術の常套手段を駆使している──オッペンハイマーの幻視を通じて。しかも「見せないことで見せている」のはヒロシマの先のことである。
この映画の前後がオッペンハイマーとアインシュタインとの前述の会話のシーンで挟まれていることなども踏まえれば、この作品が警告しようとしていることは、核軍拡競争と、全世界を巻き込む全面核戦争の可能性である。
広島に住む筆者にとってはたいへん書きにくいことなのだが、ヒロシマはその通過点にすぎない。
粥川準二(Junji Kayukawa)
1969年生まれ。フリーランスのサイエンスライターなどを経て、2021年から現職。専門は社会学・生命倫理。著書に『バイオ化する社会』(青土社)、『ゲノム編集と細胞政治の誕生』(青土社)など。監修書にアドリアナ・ペトリーナ『曝された生』(森本麻衣子ほか訳、人文書院)がある。
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