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「広島・長崎を描いていない」批判はあまりに的外れ...映画『オッペンハイマー』が「見せない」で「見せた」こととは?

2025年06月11日(水)11時30分
粥川準二(叡啓大学ソーシャルシステムデザイン学部准教授)

ただし、『オッペンハイマー』は決して理解しやすい映画ではない。その理由の1つは、構成がきわめて複雑であることだ。映画を見慣れていない者、とりわけノーラン監督の過去作品を観ていない者がこの映画を正確に理解できなくても不思議ではない。

実をいえばノーランの過去作品に魅了されてきた筆者も、1度目の鑑賞ではすべてを理解することはできず、結局、映画館で7回鑑賞した。

理解しにくい第2の理由は、歴史上の人物が次々と登場し、歴史上の出来事が次々と展開されるのだが、いちいち説明されないことである(史実からの改変も少なくない)。

筆者は本作を7回鑑賞する合間に、前述の原案本や脚本、これまでいくつか書かれてきたオッペンハイマーの伝記、原爆開発の歴史書などを読み続け、背景の理解を深めた。そうしてやっと、この映画を理解できた気分になった、というのが現実である。

では、映画『オッペンハイマー』が「描いたこと」を確認しよう。

『オッペンハイマー』が「描いたこと」

『オッペンハイマー』はロバート・オッペンハイマーの一人称の視点で描かれている、と説明されることがある。しかしこの映画自体は、オッペンハイマーの視点と、米原子力委員会の委員長で、オッペンハイマーを恨んで罠に嵌めるルイス・ストローズの視点という2つの視点で描かれている。

オッペンハイマーの視点によるパートは「核分裂(FISSION)」と名づけられカラーで描かれる(そのパートの脚本では、台詞以外の説明書きは、たしかにオッペンハイマーの一人称で書かれている)。ストローズの視点によるパートは「核融合(FUSION)」と名づけられ白黒で描かれる(脚本での説明書きは、「ストローズは......」と三人称で書かれている)。

核分裂パートは、オッペンハイマーがソ連のスパイかどうかが問いただされる「聴聞会」(1954年)の様子、核融合パートは、ストローズが商務長官としてふさわしいかどうかが問われる「公聴会」(1959年)の様子が中心である。

その過程でオッペンハイマーとストローズのそれぞれが回想する。しかも、それらは必ずしも時系列で描かれるわけではない。オッペンハイマーはそのうえでさらに幻視する(彼は統合失調症だと診断されたことがある)。

時系列の並び替えは、ノーランの過去作品『メメント』(Memento 、2000年)などを、回想と幻視の連続は『インセプション』(Inception 、2010年)などを彷彿とさせる。

この核分裂パートと核融合パートという対照構造がこの映画を貫いていることに気づいてほしい。

オッペンハイマーは核分裂による爆弾、つまり原子爆弾の開発の先頭に立った。後述するエドワード・テラーは核融合による爆弾、つまり水素爆弾を開発し、ストローズらがそれを推進した。この映画では、水爆の原理は原爆開発の過程で提唱されたことがはっきりと描かれている。

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