1890年代のムンバイ(ボンベイ)の様子 ZU_09-iStock
近年の研究により、イギリスによる植民地支配は従来考えられてきたよりもはるかに場当たり的で無計画なものであったことが明らかになってきている。
拙著『英領インドにおける法の支配と緊急事態――19世紀初頭の司法政治』(The Rule of Law and Emergency in Colonial India: Judicial Politics in the Early Nineteenth Century)の主たる事例は現在のインド西部マハーラーシュトラ州で、当時ボンベイ管区と呼ばれた地域である。
イギリスは数次にわたるマラーター戦争の結果、ボンベイ(現ムンバイ)を中心とする広大な領土を征服した。
征服後の領土にどのような統治制度を敷くかは、インド統治を担っていた東インド会社にとって喫緊の課題であった。東インド会社は独自の軍隊を有するのみならず、会社員であるイギリス人の官僚組織を通じて立法・行政・司法の運用を担っていたからである。
しかしイギリスは、インドにおける支配領域を順調に拡大していったわけではなかった。なにより、統治者たるイギリス人が一枚岩ではなかったのだ。
18世紀後半以来、東インド会社と私商人との商業上の争いを仲裁するため、インドには東インド会社から独立した国王裁判所(King's Court)が設置されていた。
当時の史料には、この国王裁判所が、法の支配を掲げて、東インド会社とたびたび論争となったことが記録されている。
例えば国王裁判所は、マラーター戦争中のコメの供給価格をめぐって東インド会社を訴えたインド人商人を勝訴とし、判決文の中で東インド会社の圧政を批判している。
このような行政・司法対立において前景化したのが、法と治安維持の対立、あるいは、法の論理と緊急事態の論理の対立であった。
東インド会社は、現地のインド人による暴動や反乱といった危機に対処するために、行政官には超法規的な措置をも含む大きな裁量権が与えられるべきだと考えていた。
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