アステイオン

ベトナム

中国と「対等かつ独立した存在」と考えるベトナム人の誇り「南国意識」とは何か

2023年06月14日(水)10時50分
牧野元紀(東洋文庫文庫長特別補佐)

ジャーナリストの近藤紘一による『サイゴンから来た妻と娘』(文藝春秋)をご存じだろうか。半世紀前のノンフィクション作品であるが、日本人による優れたベトナム人観察記として今も味読に値する。

近藤は同書のなかでベトナム人のメンツについて以下のように述べている(*7)。

 サイゴンに住みはじめたころ、親しくなった知識人から、この国での付き合いの鉄則として、 「常に相手の名誉心を重んじよ」といわれた。
 その後の生活体験からも、この国の人々がときには異常に思えるほど「メンツ」にこだわり、現実にそれへの配慮が日々の身の持し方の一基盤をなしていることをしばしば実感した。単に個人の行動や対人関係に限らず、ときには政治問題、外交問題にいたるまで「メンツ」が介入し、それがこの国自体の生きざまを、はた目にはよけいややこしくしているのではないか、と思われることさえあった。

ベトナム人のかくも高きプライドは前近代の封建王朝の時代に各社会階層における儒教の浸透とともに醸成され、最後の独立王朝となった阮(グエン)朝の時代(1802年~1945年)に頂点を迎えた。

阮朝の歴代皇帝とその周囲においては、同時代の清朝を満州族による(漢民族ではない)〝夷狄〟の王朝であると侮蔑し、自分たちこそが中華文明を正しく継承しているのだと自認する傾向がみられた(*8)。

そもそも儒教で理想とされる古代中国の都市国家「周」は小さかったのであるから、領土の小さいベトナムこそが純粋に儒教の教えを守っているのだとの自負さえあった(*9)。これは同時代の朝鮮王朝にもみられたいわゆる「小中華思想」である。

このベトナム版中華意識のことをベトナム史研究では「南国意識」とよぶ。〝北国〟である中国に対して、〝南国〟であるベトナムは文明的に対等かつ独立した存在であるとする国家意識である(*10)。

これぞすなわち、ベトナム人の誇り高きメンツの淵源である。


[注]
(*1) 法務省 出入国在留管理庁2022年6月末統計 https://www.moj.go.jp/isa/policies/statistics/toukei_ichiran_touroku.html
(*2) 厚生労働省 2022年10月末統計 https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_30367.html
(*3) 出入国在留管理庁 2011年統計 https://www.moj.go.jp/isa/policies/statistics/toukei_ichiran_touroku.html
(*4) 安田峰俊『北関東「移民」アンダーグラウンド──ベトナム人不法滞在者たちの青春と犯罪』文藝春秋、2023年。
(*5) JETRO ビジネス短信2023年1月17日 https://www.jetro.go.jp/biznews/2023/01/9fda0768b852c155.html
(*6) 古田元夫「日本におけるベトナム研究」木村汎、グエン・ズイ・ズン、古田元夫編『日本・ベトナム関係を学ぶ人のために』世界思想社、2000年。
(*7) 近藤紘一『サイゴンから来た妻と娘』文春文庫、1981年、58-59頁。
(*8) 竹田龍児「阮朝初期の清との関係一八〇二―一八七〇年」山本達郎編『ヴェトナム中国関係史』山川出版社、1975年。
(*9) Woodside Alexander Berton, Vietnam and the Chinese Model; A Comparative Study of Vietnamese and Chinese Government in the First Half of the Nineteenth Century, Harvard University Press, 1977.
(*10) 古田元夫『ベトナムの世界史──中華世界から東南アジア世界へ』増補新装版、東京大学出版会、2015年。


牧野元紀(Motonori Makino)
1974年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得満期退学(博士)。国立公文書館アジア歴史資料センター調査員、東洋文庫主幹研究員、昭和女子大学大学院准教授などを経て、現職。専門は東洋学(主にベトナム史、パリ外国宣教会アジア布教史、近代太平洋海域交流史)。編著に『ロマノフ王朝時代の日露交流』(勉誠出版)など。


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 『アステイオン』98号

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