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国際政治

リンドバーグに憧れた飛行機少年──「ミラージュ戦闘機の生みの親」マルセル・ダッソー(上)

2022年10月11日(火)07時58分
上原良子(フェリス女学院大学国際交流学部教授)

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マルセル・ダッソー(1985年9月) Charles Platiau-REUTERS

弟のマルセルは、1909年、エッフェル塔の周りを飛ぶ飛行機に衝撃を受けた。そこで航空高等学校に進学し、航空機の製造技師を目指した。卒業の翌年に勃発した第一次世界大戦において、航空機は新型兵器として期待を集めた。マルセルはプロペラ製造会社を設立した後、大胆にも戦闘機の製造に挑んだ。しかし軍への初納入日となるべきまさに1918年11月11日、休戦協定が結ばれ、戦争は終わった。

大戦により国土が破壊され、多数の犠牲者を生み出した戦後のフランスでは、厭戦気分と平和主義が広がっていた。軍部もこうした平和志向を共有し、その戦略は防衛重視の方針をとったため、当然航空機への関心も低下した。そのためマルセルも軍需産業から離れ、建設業に携わることを余儀なくされた。

しかし、世界では飛行機の可能性は高まる一方であった。1928年にようやくフランスでも空軍省が設置され、自国での航空機産業の重要性が認識されるようになった。1927年のリンドバーグに衝撃を受けたマルセルも、翌年、マルセル・ブロック航空機会社を設立した。植民地との間の郵便機製造に着手した後、双発の爆撃機Bloch200の製造に挑んだ。

ファシズムと民主主義の間で

1933年ドイツ。ヒトラーが政権を掌握した。早々にヴェルサイユ条約で禁じられたはずの再軍備に着手した。フランスが仮想敵であることは容易に想像されたが、フランスの軍事力とそれを支える軍需産業はあまりに脆弱であり、この脅威から目を背けた。

1930年代はまた大恐慌に苦しんだ時代でもあった。ヒトラーの元で驚異的な復活を遂げるドイツに対し、フランスは低迷を続けた。その中で36年にレオン・ブルム率いる初の左翼系の内閣、「人民戦線」が誕生した。

左派の勝利に労働者は喜び、祝祭的な空気も広がった。しかし同年スペインにおいて内戦が勃発し、政府は同じ左派政府を支援すべきか否か、苦渋の選択を迫られた。何より、ドイツの再軍備を前にして、フランスが攻撃を受けることももはや杞憂とは思えなくなっていた。

戦闘機は新しい時代の安全保障の要であり、航空機産業は経済を支える基幹産業となっていた。そのため、航空機産業の国有化が議論されるようになった。

基幹産業の国有化政策はヨーロッパの左翼の基本路線であり、人民戦線もそれに倣ったと言える。しかしそこにはフランス経済特有の事情もあった。アメリカやドイツと比較すると中小企業が残存し、脆弱なフランス企業は、米独と比較すると著しく生産力が劣っていた。

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