アステイオン

国際政治

武器政商、それともフランス外交の立役者か──「ミラージュ戦闘機の生みの親」マルセル・ダッソー(中)

2022年10月11日(火)08時00分
上原良子(フェリス女学院大学国際交流学部教授)

カタール空軍のダッソー・ミラージュ2000-5  REUTERS


<戦前はナチスと対峙し、戦後冷戦下では米ソ依存を回避するフランスの外交戦略がダッソーの躍進を支えた。『アステイオン』96号より「マルセル・ダッソー──ミラージュ戦闘機の生みの親」を3回に分けて全文掲載する>


※第1回:リンドバーグに憧れた飛行機少年──「ミラージュ戦闘機の生みの親」マルセル・ダッソー(上)より続く

占領と強制収容所──死の淵へ

1940年5月、ナチスの西部戦線侵攻が始まったが、軍備も不十分なフランスは、早々に休戦を選択した。ナチスは度々マルセルに航空機生産への協力を持ちかけたが、マルセルは頑なに拒否し、カンヌに引きこもった。工場のエンジニアや労働者もまた、ドイツのために働くことを嫌悪し、可能なかぎりサボタージュを行い、生産を遅延させた。

一方、兄ダリウスはド=ゴールとともにナチスと闘うことを選択した。そしてコードネーム「ダッソー(突撃)」として地下活動に入った。

ナチスの占領が始まると、反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れた。10月にはついにマルセルも逮捕された。公の安全と国防に危険な人物というのがその理由であった。

フランス各地の収容施設を移動させられ、一時釈放されたこともあったが、そのほとんどをオリオールやレイノー等、第三共和政の大物政治家たちと共に収容施設で過ごした。辛いとはいえ、そのほとんどはホテルを改修した施設であり、慎ましいながらも厚遇を受けた。

1944年3月にはマルセルに加え、妻マドレーヌや子供達もゲシュタポに逮捕され、7月には家族共々ドランシーに送られたのであった。この時、既に米軍はノルマンディーに上陸していた。しかしパリ解放も間近に迫っていた8月17日、マルセルは最後の輸送車両でドイツに送られた。マドレーヌも同行を望んだが、マルセルはこれを拒否し、一人出発した。その数日後、パリは解放されたのであった。

脱出の機会は何度もあった。スペインかスイスへの脱出も提案されたが、マルセルはあくまで拒んだ。マルセルにとっては、フランスにとどまることこそがフランス人であることの倫理的な選択であった。同時に戦後への期待を抱き続けたのであった。

列車はブッヘンヴァルト収容所に到着した。胸につけられたのはユダヤ人を示す黄色い星ではなく、赤い▽にFと記されたバッジであった。マルセルはフランス人の政治犯「39611」となったのである。収容所の中で、マルセルは極力病人を装い、労働を忌避した。

しかし1944年秋、ナチスは戦況打開のため、新型戦闘機メッサーシュミットの開発を模索し、再度マルセルの協力を求めた。ここで新型機の開発に協力すれば、より良い生活、何より少しでも生き延びる可能性が期待できた。苦渋の選択を迫られたマルセルは、収容所内で、共産主義者であり組合活動家のリーダー、マルセル・ポールに助言を求めた。

ポールは、収容所内のフランス人利益委員会のリーダーとして、労働従事の選別を行っていた(強制労働は死のリスクを高めた)。収容された経営者の多くは、共産主義者との協力を断固拒否した。共産主義者にとってもマルセルは資本家であり、打倒すべき敵であった。

しかしマルセルも資本家とはいえ、その判断基準はイデオロギーや階級にはなかった。共産主義を信奉するでもなく、また共産主義者を拒絶するでもなく、対等に語り合った。

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