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国際政治

武器政商、それともフランス外交の立役者か──「ミラージュ戦闘機の生みの親」マルセル・ダッソー(中)

2022年10月11日(火)08時00分
上原良子(フェリス女学院大学国際交流学部教授)

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マルセル・ダッソー(1985年9月) Charles Platiau-REUTERS

そこでは生き残りをかけた冷静な分析と冷徹な計算が働いたのであろう。両者とも、ヒトラーの戦争の道具となることは断固拒否すべき、という点で一致した。もちろんナチスの命に背くことは生命を危険にさらしかねない。しかしこのイデオロギーを越えた命がけの拒否により、マルセルは共産主義者の信頼と庇護を獲得したのであった。

米軍が迫る中、収容所は大混乱に陥った。収容者の移送、SS(ナチス親衛隊)の退避、そしてブッヘンヴァルトからの待避の中で多くの収容者が死に追いやられた。混乱の中で、ポールたち共産主義者は衰弱したマルセルの窮地を何度も救った。共産主義者との協力を拒否した者、そしてアウシュビッツに送られたもう一人の兄は、生きて帰ることはなかった。

戦後、マルセルはポールへの、そして共産主義者への恩義を終生忘れることはなかった。実際、共産主義者はレジスタンスの各局面で最も勇敢に戦い、最も犠牲者を出した。フランス共産党が愛国的とされるゆえんである。

戦後、ポールはド=ゴールを首班とする臨時政府において工業生産大臣を務めるなど、共産党の政治家としても活躍した。しかし、収容所でフランス人収容者を選別し、しかも共産主義者を優遇したのではないかと疑われ、厳しい批判にさらされた。

世論はフランス人自身が同じ国民の死の選別を行ったことに反発を示した。この時マルセルは、ポールに感謝の手紙を送ると共に、新聞にあえてこれを公表した。ポールや共産主義者はフランス人の生命を守ろうとしたこと、そして彼らは政治信条や階級の差別なく救出に尽力したことを訴え、窮地に陥るポールに支援の手を差し伸べた。

この後もマルセルは共産主義者への支援を終生惜しまなかった。共産党や党機関誌『ユマニテ』への財政支援にとどまらず、個人的な相談・財政支援にも応じたという。それは政治信条を越えた、倫理的な感謝の表明であった。

フランスから世界へ──ミラージュ戦闘機の跳躍

①ジェット戦闘機への挑戦──ミラージュの誕生
戦後、マルセルの飛行機への熱意は消えていなかった。新たにマルセル・ブロック航空機株式会社を立ちあげ、再出発を試みた。マルセルは収容所の中で、兄のコードネームであるダッソーを名乗るようになり、戦後正式にマルセル・ダッソーと改名した。そして社名も1947年からマルセル・ダッソー航空機会社に改めた(以後、企業名についてはダッソーと記述する)。

とはいえ、解放後のフランスの航空機産業は大きく立ち後れていた。フランスの産業全体が戦災による破壊に加え、ドイツにより生産設備は持ち去られ、老朽化した設備が残されたに過ぎない状況であった。何より戦争による飛躍的な技術革新に追いつく必要があった。

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