<「ゾーンに入る」という経験をしたのは生涯3度だけという、為末大氏。そもそも「アスリートは身体の言葉を持っている」とはどういうことか? 論壇誌『アステイオン』96号より「からだの言葉で人間を理解する」を転載>

学生のころから、専門家の話を聞くのが好きだった。哲学から天文学まで、さまざまな分野の講演に足を運んだが、ときに専門的すぎてさっぱりわからず、日本語なのにこんなにも理解できない世界があるのかと感心して帰路につくこともあった。

当時、大学の掲示板がおもな情報源だったので学術系の講師が多かったが、教育学のシンポジウムで、樂家の15代樂吉左衛門さんと、能楽師の片山清司(現・片山九郎右衛門)さんのお話を聞いたときのことは、いまでもよく憶えている。

2人の表現者の言葉は、それまでの学者の講演とはまるで違う「からだの言葉」だった。無駄な飾りのない、誠実な言葉で語られる身体知であり、頭で理解したというより、腑に落ちるという感覚で、その後も折りに触れて思い出すことがある。

以来、さまざまなジャンルの表現者の話を聞いたが、やはり、その人ならではのからだの言葉には特別な魅力を感じる。

アスリートのからだの言葉

とりあげた本『自分を超える心とからだの使い方』(朝日新聞出版、2021年)は、認知心理学者の下條信輔さんと、400メートルハードルの日本記録保持者、為末大さんによる対談だ。たまたま、そのもとになった京都大学こころの未来研究センターの対話イベントを聴講したことがあったのだが、アスリートである為末さんの語りが、まさにからだの言葉だった。

「アスリートは身体の言葉を持っている」と下條さんも書かれているが、アーティストなどの表現者とはまた違う質感で、からだの限界を追求した人ならではの研ぎ澄まされた言葉だと感じた。

そこに下條さんが科学の言葉で解釈を試みながら対談が進むのが刺激的で、その白熱した空気を思い出しながらページをめくった。

中心となるテーマは「ゾーン」。アスリートが極度に集中し、自分の限界を超える最高のパフォーマンスを発揮できてしまうような、特殊な状態の話だ。

現代の陸上競技には、確立した方法論も多く、ふだんの練習は、からだのどこをどう動かすか、かなり意識的におこなうらしい。でも意識しすぎてしまうと、からだの動きが滞ってパフォーマンスが落ちてしまうことがある。

それを打開するのが夢中状態。夢中になり、われを忘れると、いつも以上に高いパフォーマンスが出せることがあるという。

その究極系である「ゾーンに入る」ときには、自分の意識を離れ、行為そのものになる感覚がある。為末さんが、人生で3回だけ経験したというその状態は、時間感覚が変容する不思議な体験だったという。ハードルを跳ぶぞという意識ではなく、気づいたらハードルを跳んでいた感覚で、意識が後追いだったというのも興味深い。

ゾーンは、意図してひきおこせるものではないし、実験室で検証できない主観的な体験なので、科学的な説明がむずかしい。下條さんは、そのことを認めながらも、心理学の概念「フロー」を話の糸口とする。

フロー自体、実験的にその機序を分析しにくい主観的な体験だが、アスリートにかぎらず、わたしたちがなにかに夢中になっているときのこころの状態のことだ。

チャレンジングな課題に対して、注意が極度に集中するとき、時間の変容がおこり、没入感や遠隔存在感を感じる。そのとき大きな快がもたらされることも特徴だ。ゾーンは、フローのなかでもとくに集中の強い状態と位置づけられる。

将棋の羽生善治さんが詰め将棋をフルスピードで解いているときのフロー状態の脳を調べると、生存の根幹を担う脳幹部という進化的に古い部位が活性化していたという。

意識と無意識、意識変容状態、モチベーションの神経基盤など、興味深い知見を紹介しながら対談は進む。そのなかでも、わたしが興味をひかれたのは、遊びというキーワードだ。

遊びごころを究める

ゾーンは一握りのトップアスリートが生涯で数回しか経験できない次元の話なのに、なんとなく想像できる気もする。それは為末さんも指摘されているように、ゾーンに入る状態と、子どもが夢中で遊んでいるときのフロー状態とに共通する部分があるからなのだろう。

本番でパフォーマンスが高い選手には、成功や目標達成のためというより、ただ楽しいからやっている、というタイプの選手が多いこと、モチベーションを維持できる選手は、うまくいくこと自体よりも、うまくいかせようとするプロセスに価値を見いだしている人だという指摘も腑に落ちる。

スポーツを究めることは、身体的な技能を磨くだけでなく、遊びごころを究めることなのだと思った。

そこにアートとの共通点があると気がついた。アーティストは、生まれつき表現の才能に恵まれた人のように思われがちだが、実際には、子どものころから飽きもせずに毎日何枚も絵を描いてきたような人が多い。それこそ、うまく描くことよりも、そのプロセスを楽しめるということが才能なのではないか。

ピカソが「子どもはだれでも芸術家だ。問題はおとなになっても芸術家でいられるかどうかだ」と言っているが、子どものように夢中で表現に向き合いつづけることが才能なのだろう。

ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で、スポーツやアートを含むすべての人間の文化は、遊びから生まれたと指摘したが、その世界を究めることは、やはり遊びを究めることなのかもしれない。