書くことに集中すると悲しさを忘れる

書くという作業は、ほんの小さなおもしろさに全神経を傾けて、観察して、ブーストして出力することです。誇張するという意味ではなく、おもしろさが際立つような目線を持つという意味です。

たったひとつのおもしろさを表現するために、その前後には、何が起きたのかを説明する文章がつくわけです。その、わずかなおもしろさの前後左右に、文章をくっつけることでエッセイが成り立ちます。

そうやって書いているうちに、おもしろいことの前後左右に存在する悲惨なことがらがどうでも良くなってくるんです。そう、文章を書いていると、楽しくなってくるのです。自分が潤ってくるんです。

人のためには書いていないのかもしれませんね。自分の現実をなんとかいい方向にねじ曲げるために、自分にいいように解釈して、仕事に結びつけている。

介護を無償の仕事と考えると、状況は違ってきます。家族の介護が悲惨に思えてしまうのは、無償の仕事だという考えが根強くあるからだと思います。私はその無償というところから、なんとか捻り出そうとしています。わかりやすく言えば、本を書くことで介護という行いに賃金を与えているのです。書いていることで自分が救われていると思います。

何でも書いているわけではない

エッセイは身の回りに起きた出来事をさらりと書けばよいので楽なのではないか......そう聞かれることが多すぎて、最近は「そうです」と答える機会が増えましたが、何かを書くことが楽なわけがありません。

エッセイは、身の回りで起きたことを題材にして書くのは間違いではありませんが、どこまで書くのか、誰について書くのか、何が真実なのかのさじ加減がとても難しいものです。大事なのは、「いかに多くの情報を開示せずに、多く書くか」という点です。

それはどうしたらいいのでしょうか。私は、「解像度を上げる」ことが重要だと思っています。本当にわずかな物事であっても、解像度を上げて見つめることによって、様々な側面が見えてきます。

どんな気持ちになったのか、その時、周囲には誰がいたのか、どんな天気だったのか......そういった細かな情報を丁寧に書いていき、そして全体をまとめていくと、些細なできごとにもちゃんとドラマがあるということがわかります。それがエッセイなのではないかと私は考えています。

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エッセイを書く実直なコツ
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