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細谷雄一・慶応義塾大学教授 国際政治チャンネル

先生の明るさの根源

■細谷 やはり山崎先生はファナティシズム(狂信)に非常に嫌悪感を持っていらっしゃった。高坂先生はもっとそれが強かったと思うのですが、人間が理性を忘れて暴走したときの怖さ、あの戦争を子供の頃に経験した世代です。

つまり丸山眞男のように論理としてあの戦争を理解しようとするのではなくて、大の大人が狂信的にある方向に突進したときの怖さというものを非常に早熟なあの二人は子供心に感じていた。特に山崎先生は満州国で育っていますからね。

ですから、それに対抗する、ある意味では予防注射として近代主義的な論理、強靱な論理、理性がないといけない。だけどその一方では、大阪に文化をつくるとか、あるいは、サントリー文化財団で地域振興ということを非常に重視するという土着化の視点も持っておられた。

つまり、欧米の「近代主義」をそのままの形で日本に当てはめるのではなくて、日本の歴史、文化のコンテクストの中でどうやって日本の中に埋め込めるかということです。

これはアメリカの社会科学の最先端理論をそのまま日本に当てはめても、我々の生活や社会、そして政治をよくしていくことにどれほど有効かわからないということと同じですね。

今回の待鳥さんの新刊の意図も、ポリティカルサイエンスのスタイルをかなり土台にしながらも、政治学はそこにとどまるものではなくて、その意義を認めながらも、土着化、つまりどうやって日本のコンテクストの中に埋め込んでよりよい政治をつくる上でのヒントを提供できるかということを書かれたのではないでしょうか。

山崎先生が亡くなられる前にまったく意図せずして山崎先生へのオマージュを書き、また文体の影響も受けているのではないですか?

■待鳥 私は文体をまねできるほど熱心な読者では全然なかったのですが、『政治改革再考』は、いわゆるポリティカルサイエンス的であると正面切って言うにはかなり冒険している本です。今のポリティカルサイエンスの中でこういうテーマを扱えるかといえば、論証が厳密でなければいけないなど、近年は基準が非常に厳しい。

もちろん、トップジャーナルの論文もとても大事なことだと思っていますし、それをやるということ自体には価値があります。それによって解明されたり、発展していく領域があるからです。

ただし、みんながそれだけをやればいいかと言われたら、それはちょっと違うと思っています。そのことによってこぼれ落ちていく要素があるからです。政治学が何のためにあるのかと考えたときに、民主主義社会の中に生きている人たちにとって何か腑に落ちるものがないといけないと思っています。

ですから、政治学、ポリティカルサイエンスの純度の高いものはもっと私よりも優秀な人、若い人がやれると思っているので、こういう書き方にしました。

もし、そういう書き方がにじみ出ているのだとしたら、山崎先生をはじめ「そういうふうにやっていいよ」と励ましてくださった方々の影響はあると思います。