いずれにしても、それを漢字圏の構成原理として捉えるなら、近代以前は漢字圏内部における交通と分拠の問題だったのが、近代以後は、漢字圏それ自体が分拠された空間となり、交通はそこから外へ出るための手段だと認識された。

つまり「修身斉家治国平天下」と言うごとく、自己を取り巻く圏域を「身」「家」「国」「天下」のように安定的な段階論で認識するのでなく、「天下」には外があり、「天下」は可変であり複数であり、政体として選択可能であることを前提に、自己と世界の再帰的認識(A.Gidens)が行われたのである。そしてその局面において、漢字は西洋語の「訓」として、交通と分拠の欠かせない手だてとなった。

それは翻訳語という水準に留まるものではない。例えば、近代以前は天道の是非を問うても自分には跳ね返らなかったが、近代以降は、自分の思考に影響を与えているかもしれないものとして「天道」が問われる。それは西洋の「天道」つまりキリスト教のそれと比較され、いやおうなく自意識が強化され、西洋のそれを選択することすら可能になる。

こうした再帰性を近代の指標とするのなら、19世紀から20世紀にかけての東アジアはたしかに近代という思考のダイナミズムを体現する時空間であった。そしてそのメディアは、英語でもフランス語でもなく、漢文もしくは漢文脈で書かれた文章であった。

漢字圏としての近代東アジア

東アジアにおける外交言語が漢文(文言文)であったことは言を俟(ま)たない。秦の文字統一は、域内諸国間の外交言語の統一であり、それが帝国内言語の統一として機能した。朝鮮や越南など境域の王朝における漢文使用もその延長であり、まずは外交として、やがて内政の言語として、漢文という書記言語が用いられた。

日本も例外ではない。律令制とは、制度の輸入であると同時に言語の輸入でもあり、奈良朝から平安初期、大量の漢詩文が学ばれ、内外は漢文で繫がれた。だが、やがて日本では律令制による統治は形式上のものとなり、外交文書を発するのも天皇ではなくなった。日本という圏域の外との交通は制限された。交通よりも分拠が優先されたのである。

明治の天皇親政は、律令制を復活させ、外交文書も天皇の名で発せられる。その中で起きたのが「書契問題」である。

1868年に日本新政府が成立した後、天皇の名において朝鮮王朝に新たな国書を送ったが、李氏王室はその国書中に「皇」「勅」などの字が用いられていることを認めず、日本側は天皇の至高の権威を主張して譲らなかった。これが「書契問題」を引き起こし、最終的に1875年の江華島事件へと発展した。