<日本近代初頭に西洋の文化や思想だけでなく、漢文が隆盛した背景について。『アステイオン』104号より「漢詩文というメディア──近代東アジアの言説空間」を一部転載> 

人文環境としての漢字

東アジアの古典世界は、漢字とともにあった。漢字という読み書きの手段は、文字としての普遍的特性を有すると同時に、中国における韻文と散文を含めた文語の表記と密接に結びついて発達した言語的特性もあり、さらに地域言語において用いられることで獲得された地域的特性もある。

漢字文化圏という呼称は便利ではあるけれども、あたかも共通の単一文化がそこにあるかのような幻想をいだかせるのなら、適切とは言いにくい。この圏域は歴史的に複数の層を形成し、地域的にも多くの小圏域が組み合わさって構成されているからである。

前近代と近代とでは、その圏域の構成からして異なっている。それゆえ、できるだけ即物的に、漢字圏という語を用いたい。

もともと文化という語には未開から文明へという、教化啓蒙の態度が強い。もし、現代における文化の定義が、ヒトの営為が習慣化されて、何かの個別行為のベースとなったり、行為を可能にする環境を意味するアフォーダンス(J.Gibson)となったりするものを指すとするならば、漢字文化も、漢字が可能にしてきたもの、漢字が可能とするもの、ということになり、考え方としては受け入れやすい。

しかしそうであれば、文化という語よりも、自然環境になぞらえて、人文環境という語で捉えたほうが学術的には適切かもしれない。

さて、人文環境としての漢字の特質の1つに、伝達範囲の広さが挙げられる。もとより文字は言語以上に伝達の範囲を拡げるが、漢字は、その表意性を生かして、異なる言語間での伝達機能を獲得した。

原理的に文字は記号が言語音声と結びついて成立するから、表語文字が出発点である。それが言語音声のみを示す役割をもつことで、文字自体の表語機能を失い、表音機能のみを有することになる。

多くの場合、ある言語と結びついて誕生した文字が別の言語で用いられるのは、このプロセスがあることによる。

一方、日本語における漢字は「訓」という方法によって(「訓読」は広い意味での「訓」に含まれる)表意用法を保存し、仮名による表音用法と併用することで、漢文を日本語で読解し、日本語を漢字で表記することを可能とした。「訓」は、漢字の伝播において広く見られた技法であり、日本語に限るものではない(金文京『漢文と東アジア──訓読の文化圏』岩波新書、2010)。

もう1つ、漢字が可能にしたのは、概念化である。これも、あらゆる言語は概念化を支え、文字によってその操作性は強められるのだから、漢字だけの特権ではない。

しかし、漢字の持つ表意性は、それを記号として扱い、新しい概念の把握に使うことを有利にした。また、作詩のレッスンが広く行きわたっていたことも、文字を操作して組み立てるという営為の習慣化を可能にしたのである。

漢字が可能にした伝達とは、交わること、広がることであり、同様に概念とは、集約すること、形作ることである。前者と後者の関係は、博と約、用と体のような伝統的な(漢字化された)概念とも重なりあうところがある。あるいは全体を概括して、近代語風に交通と分拠としてもよい。流動と定着というイメージでもよい。