溺れながら生きる 依存とケアのあいだで』(信田さよ子・著、文藝春秋)を読んでいたら、自分が初めて「アディクション」という言葉を意識するきっかけになった出来事を思い出した。

20年近く前、ダルク(DARC=Drug Addiction Rehabilitation Center。薬物をやめたい人の回復を手助けする民間リハビリ施設)を見学したときのことだ。

『溺れながら生きる 依存とケアのあいだで』

薬物依存症経験者によって運営されるそこでは、同じ経験を持つ人たちが共同生活を送っていた。一人だけ自分のことを客観視できる男がいて、彼とはそののち友人関係が始まったりもした。

だが、それはむしろ例外で、大半の人たちは(おそらく無意識のうちに)自分を閉ざし、ひっそり生きているように見えた。

まるで、アディクションの現実が映し出されているようだった。

ところで著者も指摘しているように、アディクションはきちんと理解されていない言葉でもある。というよりも、「行動の悪習慣」として批判的に捉えられているというほうが近いかもしれない。

もちろん適切ではないが、現実問題としてaddict(中毒者)=“意志が弱い人、ダメな人”というイメージがあることは否定できないのだ。しかし、見逃すべきでないのは以下の視点である。

 アディクションには別の定義もある。耽溺・ハマるという言葉だ。何かに浸り、溺れていく。ハマってしまい抜けられない。

 溺れるという字にはサンズイが使われている。地上から逃れて水の中という異世界に浸り、溺れていく。それは、足を滑らせて水に溺れてしまうのではなく、わざわざすすんで溺れるのだ。これは生き延びるためのアディクションというとらえ方とつながっている。(「まえがき アディクションの時代」より)

アディクションは「生き延びるため」のものだった
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