依存症の主役は「おじさん」から女性へ
また、アディクションのひとつであるアルコール依存症についても、本書には興味深い指摘がある。70年代、臨床心理士として多くのアルコール依存症者と向き合ってきた著者ならではの見解だ。
まだ「アル中」という名称が一般的だったそのころ、飲んで働いて、働いて、働き続けたのは男性だったということである。
しかし40年を経て、日本の姿も依存症者の姿も変わった。働き続けて飲みつぶれ、家族を犠牲にするというような「破滅的飲酒」を肯定した「男の美学」もすたれたいま、若い女性たちがそこに躍り出たというのである。
これはアルコールのみならず、アディクション全般にもあてはまることではないだろうか。だからアディクションについて考えるとき、見逃すわけにはいかないことだと思える。
今から26年前の拙著『依存症』に、私はこう書いた。
「依存症とは(略)よりよく生きようとする姿勢の延長線上にある」
「よりよく生きよう」という表現は、今なら「生き延びるため」と書くだろう。かつての依存症の世界の主役だった男性(おじさん)たちも、生き延びるために飲んでいたことは間違いない。しかし彼らには、家族(親、妻、子ども)というバッファー(緩衝材)があった。ケアしてくれるパートナーがおり、頼ってくれる子どももいた。飲酒によって生じる犠牲者が確実に存在していたのである。飲酒によって転落するだけの高度があった。(183〜184ページより)
ところが現在、依存症の世界の主役となっている女性たちの多くに、犠牲になってくれるような存在はいない。ケアしてくれるはずの家族に期待をかけることもできず、つまり彼女たちには“依存できる人間”がいないというのだ。
だからこそ、人に依存するという術を持たない彼女たちは、アディクション(嗜癖)の対象に依存するしかないのだ。例えば、生き延びるために薬や酒に頼ったりする。
他にもいろいろなアディクションが考えられるだろうが、いずれにしても、前の時代にあったようなバッファーはない。
身を守ってくれるものがないまま転落したら、どうなってしまうかは想像に難くないだろう。