<映画館に並ぶ長いカタカナの題名を、日本語を母語とする人も本当にすべて理解しているのだろうか。「一知半解」と「賭けとしての言葉」について>
『アステイオン』104号の特集「漢字・漢語・漢文──文明から考える」を読みながら、私は、日本語を学びはじめてから十年以上、目の前に立ちこめていた「霧」のことを考えていた。
そして、その霧の中で言葉を使うことは、いつも小さな「賭け」を伴うのかもしれないと思った。
私は中国人である。
日本語を学びはじめたのは2014年で、同年9月に初めて交換留学生として日本に来た。半年しか勉強していなかったのに何とか生活できたのは、ひとえに漢字のおかげである。とはいえ、日本語の漢字は中国語と意味が違うことも多く、そこにさまざまな仮名が混ざるので、世界はいつも霧越しに見えていた。
面白いのは、その霧の濃さが均一ではないことだ。学術的で硬い表現では霧が薄くなり、生活感のあるくだけた表現ほど濃くなる。だから私がいちばん怖いのは病院である。医師がやさしい声で、「ビリビリ痛みますか、ズキズキですか、それともチクチクですか」と尋ねてくる。オノマトペは、霧を壁に変える最強の呪文である。
そんな時、私はテッド・チャンの短編SF小説『あなたの人生の物語』を思い出す。そこに登場する異星人「ヘプタポッド」は、人間の線形的な因果とは異なる、目的論的な言語体系を持つ。そのため、人間には難解な数学理論を一目で理解する一方、子どもでも解ける算数問題には頭を抱える。この作品はのちに『Arrival(到着)』として映画化された(*1)。
日本に「到着」したばかりの私は、まさに一匹のヘプタポッドだった。今でも「再構築」や「脱構築」は平然と使う一方で、「司(つかさど)る」や「免(まぬが)れる」の前では固まってしまう不思議な生き物だ。先週も「溺れる」が思い出せず、学生に「『溺死』に近いけれど、もっと簡単なあの言葉は何だっけ?」と尋ねた。
もちろん、ヘプタポッドは私だけではない。中国語を母語とする人が日本に来ると、多かれ少なかれヘプタポッド的な性質を帯びる。
たとえば私の夫は、小学校卒業後に来日した。彼の学校の先生はとても親切だった。ただし、少し親切すぎた。日本語のわからなかった彼に配慮して、試験にある漢字をすべてひらがなに開いてくれたのである。
彼は、その瞬間、目の前が真っ暗になったという。漢字ならば読めたが、ひらがなでは何も分からなかったのである。