<ナフサ不足をめぐる日本政府の説明に漂う「奇妙な違和感」。その背景には人々の「フェアさ」への疑いがあるのでは、とマライ・メントライン氏は論じる>
「フェアであること」が、かつてほど強い正当性を持たなくなっている。むしろ近年は、「どうせ世の中フェアじゃない」という前提の下で、人々も政治も動き始めているように見える。そして、その感覚はSNS空間だけでなく、国家や制度の説明そのものにも浸透しつつある。
例えば、イラン戦争やナフサ不足をめぐる日本政府の説明には、どこか奇妙な違和感が漂う。ナフサ不足についての「目詰まりが起きている」「流通過程の問題だ」という説明自体は、完全な虚偽ではないのだろう。しかし同時に、多くの人は「本当は別の事情もあるのではないか」と感じてもいる。
にもかかわらず、政府の説明がわりとそのまま通ってしまう。ここにあるのは、単純なプロパガンダというより「もともと完全にフェアな説明など存在しない」という社会的諦念のような心理ではないか。
この感覚は近年、政治空間全体に広がっている。かつて民主主義社会では「フェアであること」が重要な建前だった。もちろん現実には不公平も利権も存在したが、それでも少なくとも「公平であろうとする姿勢」は求められていた。
しかし現在は、その建前そのものへの信頼が崩れている。特にネット社会では、「正論っぽいもの」や「中立っぽい説明」が、むしろ偽善として嫌悪される場面が増えている。
背景にあるのは「フェアさに裏切られた感覚」だろう。つまり「自分は真面目にルールを信じていたのに、結局損をした」という感情。
その結果「だったらこちらもアンフェアに振る舞っていい」という心理が生じる。これは単純な攻撃性ではない。むしろ「最初に被害を受けたのはこっち!」という被害者意識に近い。