すると一人の女性看護師がすかさず、日本語を知っていると言い出した。聞かせてくれと言う間もなく、彼女は私の耳元で大声を出した。


「オナカ、ペコペコー」

 いきなりで腰が抜けそうになった。俺が幼児たちを気にしながらも大笑いすると、最高のギャグを見つけたみたいに看護師は繰り返した。

 「オナカ、ペコペコー」

 止まらない俺の笑いを見て、リシャーも日本語を知っていると指を立てて示しながら口を開いた。

 「オ・ハ・カ」

 今ここでかよ、と私はまた意表を突かれてその場に倒れそうになった。二人の女性看護師は新しい日本語に興味津々でリシャーを真似し始めた。

 「オ・ア・カ?」

 「オ・ハ・カ」

 「オ・ハ・カ?」

 「オ・ハ・カ」

 最初は不謹慎な気がして背中が凍りついたのだけれど、看護師たちの明るい笑い声を聴くうちにそれでいいと思い始めた。赤ん坊たちにその明るさが伝わっていく気さえした。

 そこに赤い制服を着た女性看護師が入ってきて、あの右手前の台の上でむき出しになっていた新生児の付けている酸素吸入器の確認を始めるのがわかった。

 俺たちは静かになった。

 途端に、周囲がみな壊れやすさの塊であるという事実に、俺は再び息苦しくなった。

 カンガルー療法をしている新生児室にまた移った。産まれたばかりの三つ子が部屋に戻ったと聞いたからだった。母親は体の小さく細いジュディス・クラージェさんで、黒い別珍の短いワンピースを着ていた。やがて来たパパも若く、23才でウェンドリー・バロテレミーと言った。

 産まれるまで三つ子だと知らなかったと両親は緊張気味に言った。例の検診不足ゆえのことだった。市内の別の病院から緊急に運ばれてきて帝王切開を行ったのだそうだった。

 彼女と子供たちを谷口さんは是非撮りたいと言い、リシャーが許可を取る間、俺は例の捨て子の保育器のところへ移動した。

 赤ん坊は眠りから覚めていて、びっくりするほど大きな目をしていた。 

 紘子さんの話では、妊娠7ヶ月弱(28週)で産まれてしまい、700グラム以下なので救命しないステージであるはずが、途中まで手術が進んでいたためにプロジェクトを続けたのだそうだった。つまり赤ん坊は九死に一生を得たのだ。

 けれど、母親がいなくなってしまった。

 せっかく生きたのに、子供は天涯孤独になっていた。

 一日ごとにすくすく育っているのは体のパーツの太さでわかった。瞳の光でわかった。動きの素早さで知れた。

 突然、奴が俺をつぶらな目で見た。

 何か言ってやらなければいけないという気がした。そうでなければ物扱いじゃないか。

 そして、口からつい出てきた英語に俺自身驚いた。


It's nice to meet you.

 俺は赤ん坊にそう話しかけていた。

 言ってから、ほんとにまったくそうだと思った。

 niceに決まってる。

 すると、赤ん坊の目の奥に一瞬、認識が宿った。奴が俺を人間として感じたように思った。

 俺は大事なことをなし終えた気持ちになって、なおも奴の目を見た。

 ただし"認識"と見えたのは、踏ん張っておしっこをする表情だったのかもしれない。現に係の看護師がおしめを替えに来たから。

 さて、産科救急センターについては、もう一回分書きたい。

 ダーン先生の回診と、「母親たちの村」、新人スタッフの悩みについてなど。

 ここは俺にとって特に重要なミッションだ。ハイチ編もあと三、四回で終わり、別のプロジェクトを俺は見に行かねばならない。

追加

 そうだ。

 次の章がアップ出来るようになるまでに、このYoutubeを見ておいてもらうのもいい。

 俺がハイチに出かける前に唯一準備として見ておいた映像。

 スペースシャワーTVでいつも世話になっている村尾君がリンクを送ってくれていたのだった。

 内容はレッドホットチリペッパーズのベーシスト、フリーがハイチの村を巡るというもの。

 これがあるからこそ、俺は見かけののんびりしたハイチがただごとでない状況だと自分に警告し続けることが出来た。

 そして彼らミュージシャンへの敬意を込めて、せめて文を書く人間としてその勇気とハートに準じるレポートをしようと取材の注意を怠らなかったのである。

 では、フリーの果敢な旅をご覧下さい。

 英語が出来なくても十二分に、彼の感情もハイチの村の状態も伝わります。

FLEA from the Red HOT Chili Peppers Travels to HAITI

続く

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いとうせいこう(作家・クリエーター) 1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。