<日本で「インド映画=踊る」の公式が定着してから四半世紀、その意味を今こそもう一度問い直すとき>

『ムトゥ 踊るマハラジャ』から『RRR』『バーフバリ』など、2000本以上のインド映画をレビューしてきた著者が、ディープなインド映画の世界へと誘う話題書『インド映画はなぜ踊るのか』(高倉嘉男著、作品社)より第3章「なぜ踊るのか」を一部編集・抜粋。

 
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1998年に劇場一般公開され、日本に第一次インド映画ブームを巻き起こしたタミル語映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95)。日本でその副題として付けられた「踊るマハラジャ」という世にも楽しげなフレーズは、日本人の脳裏に「インド映画=踊る」という公式を強烈なインパクトと共に永遠に刻み込んでしまった。

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一般の日本人と話しているとき、インド映画が話題に上ると、必ず言われる言葉がある。「インド映画って必ず踊りが入りますよね?」

インド映画をまともに観たことのない人からもそう言われるのだから、もはや「インド映画=踊る」の公式は、国民的な共通認識として定着してしまっているといっても過言ではないだろう。

「インド映画=踊る」という公式は、確かに間違ってはいない。そもそも『ムトゥ』には2時間45分の上映時間の中に少なくとも4曲のダンスシーンが散りばめられており、それぞれが6分ほどの長さだった。しかも、どれもとても個性的で、観客の脳裏に「インド映画=踊る」という印象を焼き付けるのに十分すぎた。

実際、そういう作りは『ムトゥ』に限ったものではなく、インドで作られる大半の映画に共通する特徴である。間違っていないばかりか、筆者はむしろ、「インド映画最大の特徴は歌と踊りである」と日頃から積極的に公言しているくらいである。インド映画が続く限り、歌と踊りに彩られた独特の映画作りは続いていってほしいと願っている。

では、なぜこのような含みを持たせた言い方をしているのかというと、「インド映画=踊る」という公式のせいで、日本人の思考の中に、インド映画を他国の映画との比較において一段下に見るような偏見も同時に入り込んでしまっていないかという心配があるからなのである。

日本人のみならず、世界の大部分の人々は、踊りが入っていない映画を「標準」、踊りが入っている映画を「特殊」だと思い込み、踊りにこだわるインド映画を「標準」から外れた異質なものとして捉えているように感じる。

極端なことをいうと、踊りが入った映画はおふざけで作っているのだと考え、そんなふざけた映画は、暇つぶし目的ならともかく、真面目に取り合う必要はないと勝手に結論づけている節がある。

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「紙でお尻を拭くのですか?」
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