この成功は、映画のテーマとストーリーを下手に捻らず、シンプルで王道なものに落とし込んだから、ということが大きいだろう。骨格部分が安心して観られるからこそ、観客は自由に細部へと潜り込んでいける、というわけだ。ウルトラマンが当初は任務として人間を守っているうちに人間に愛着が沸き任務を超えた行為をしてしまう。人類はウルトラマンという強大な力に頼りがちになり、次第に自分で考えて何事かを成し遂げようとする気力を失うが、最後にはやはり人類は自主性と叡智をもって自ら困難に立ち向かわなければならない、ということに気づく。この二つの王道のテーマはまた、これまでのウルトラシリーズでも反復されてきたものであり、ここでもう一度そのテーマが繰り返されることで、『ウルトラマン』という物語の本質を今一度確認できるようになっているのだ。

シナリオは急ぎ足

脚本については、テーマがこれまでのウルトラシリーズの反復であるということに甘えて、やや先走ってしまっている感が否めない。たとえば既に指摘されていることだが、ウルトラマンがなぜ人類に対して強い執着を持つようになったのか、という点についてはあまり描かれていない。禍特対のメンバーとの交流も短い。特撮番組を見慣れている者は、両者の交流を描く数話分のエピソードを勝手に補完して観てしまうので、ウルトラマンが真に人類側の立場に立って戦うという展開を自然に受け入れることができるが、そのようなリテラシーを留保して観たとき、果たして十全なシナリオになっているかは怪しい。

だが、このことがこの映画にとって致命的な問題であるかといえば、そうではない。映画には尺があるので、省くべき箇所は省かなければならない。そしてこの映画が初めからファンムービーとしてつくられている以上、観客のリテラシーに期待できる部分は省いても構わない、と製作陣が考えたとしても、特に不合理だとは思えないからだ。確かに書き割りのようなシナリオや台詞まわしは観客の感情移入を拒否するが、感情移入が出来なければ見ていられないようなエモーショナルなシーンも特にないので、終始適度な距離感で鑑賞することができる。映画に「泣き」を期待するような観客は、そもそも庵野秀明の映画を見に行かないだろう。

公開延期によって生じた時代批評的な視点

『シン・ウルトラマン』は2021年夏に公開される予定であったが、コロナの影響により2022年に公開が延期されていた。その間、ロシアのウクライナ侵攻が起こり、それに伴い日本では一部の政治家や市民が、防衛予算の拡大や核武装の検討を声高に主張するようになった。

メフィラスに服従するな