昨夏の安保関連法案の国会採択時に、アラブ世界のメディアでも「日本は米国とともに軍を外国に送り、戦争をする国になる」というとらえ方で報道された。もし、将来、自衛隊が中東に派遣されて、自衛のためであれ、現地の人間を殺傷することになれば、「日本は殺していない」という主張は成り立たなくなる。

 そのような「平和主義」の理屈がISに通じるとは思わない。しかし、ISの暴力に影響される若者たちに向けて、ISの暴力の不当性を訴える意味はある。ISがアルカイダなど、これまでのイスラム過激派と異なるのは、3万人以上の若者が世界から参入している影響力の大きさと広がりである。ダッカ事件のように日本人が無残に殺害された後では、ISに言葉は通じず、力でつぶすしかない、という議論が日本でも広がるかもしれない。しかし、日本政府が米国主導の対テロ戦争により深く関与していくことは、むしろ、イスラム世界と非イスラム世界を分断し、対立させようとするISの思うつぼである。

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ISではなく、ISに影響される若者たちに向けて訴えを

 ISが湯川さん、後藤さんにナイフを向けた時のビデオ声明を思い起こせば、ISはまず「日本が戦争を仕掛けてきた」と、自分たちが日本人を敵視する理由を示した。そのような説明をしたのは、ISでさえ、日本人にナイフを向けるにあたって、イスラム教徒やイスラム世界にむけて自分たちの正当性を唱えなければならなかったということである。それはISによるイスラム世界に対する「日本敵視」についての情報戦である。それに対して、日本は日本人が殺害されることの不当性をイスラム世界に向けて訴えることで対抗すべきである。ISを説得するためではなく、ISに影響される若者たちに向けて「暴力の不当性」を訴えるためである。

 ISを含むイスラム過激派のテロが厄介なのは、本人たちが殺人をイスラムの教えを実現するための「ジハ―ド(聖戦)」と正当化していることである。イスラムでは殺人は大罪であるが、殺人が罪ではなく、信徒としての義務となるためには、「ジハード」として正当化されなければならない。もし、理屈の上で、殺人が正当化されなければ、聖戦の根拠は崩れ、大罪を犯していることになる。

 論争によって、過激派が暴力を放棄した例としては、エジプトで90年代前半に観光客襲撃を繰り返した「イスラム集団」がある。1997年11月にルクソールで日本人10人を含む60人近い観光客を殺害したことでも知られる。イスラム集団の組織内で暴力行使に対する論争がルクソール事件前後から起こり、エジプト国内のイスラム集団の指導部は2000年前後に武装闘争中止を宣言し、合法的な政治運動へと転換した。

 ISに参加したり、イスラム・テロに関わったりする若者は、狂信的で理屈が通じないと思うかもしれない。しかし、彼らが従うのもまた「イスラム」である。ジハード(聖戦)についてコーランでは「あなたがたが不信仰者たちと(戦いで)出会えば、彼らの首を切り落とせ。かれらの多くを殺したら、次に縛り上げよ。戦いが終れば放してやるか、身代金を取るなりせよ」(ムハンマド章)とある。

「富の寡占」と「貧困の蔓延」への敵意