ワクチン接種は自由の侵害にならない、「個人の選択」ではなく強制すべき

2021年8月18日(水)18時21分
ピーター・シンガー(米プリンストン大学生命倫理学教授)

<ワクチン反対派にも接種を義務化することは「本人の意思に反して正当に権利を行使し得る唯一の目的」に合致する>

筆者がこの原稿を書いているオーストラリアのビクトリア州は、1970年に世界で初めて自動車のシートベルト着用を義務化した。その法律は当初、個人の自由を侵害するとして批判されたが、人々は命を守るものだとして受け入れた。今や、ほぼ全ての国で着用は義務化されている。

翻って現在は、新型コロナウイルスワクチンをめぐり接種しない自由を求める声がある。東京五輪のアーチェリーでアメリカ代表だったブレイディ・エリソンは、「(接種は)100%個人の選択」だとして「反対する人は誰でも、人々から自由を奪っている」と譲らなかった。

興味深いことに、(今や大多数が賛成する)シートベルトの義務化が実は明白な自由の侵害である一方で、他人を感染させ得るような状況にある人に対してワクチンの接種を求める法律は、他人の行動の自由を守るために自由の1つを制限しているにすぎない。

誤解のないように言うが、筆者はシートベルトの義務化に大いに賛成だ。アメリカでは、この法律のおかげで75年以来37万人以上もの命を救ったとの試算があり、重傷者数を減らすことにも役立っている。

しかしながら、「あなた自身のためだから」という論理は、ジョン・スチュワート・ミルが『自由論』で説いた「その人の意思に反して正当に権力を行使し得る唯一の目的は、他人に対する危害の防止」という原則に反するものだ。

「本人のためだから」という理屈は、本来、強制力を持たせるには「十分な根拠にならない」のだ。だがミルは、市民社会の人々が合理的な選択をする能力を有することについて、現代のわれわれ以上に自信を持っていた。

後から悔やんでも時すでに遅し

シートベルトの着用という、取るに足りない負担のためにそれを拒む人々は、負傷した後になってようやく自らの無分別を認識し、悔やむ。だがいつも時すでに遅しだ。

この状況はコロナワクチンの接種によく似ている。米アラバマ州のブリトニー・コビア医師は、彼女の体験をフェイスブックに投稿した。

「私は、重篤なコロナ感染者の若者を受け入れている。彼らは(人工呼吸器の)挿管を受ける前に決まってワクチンを接種してほしいと懇願する。私は彼らの手を握り、残念だがもう手遅れだと言う。臨終を伝えると私は遺族をハグして、この命を無駄にしないためにできる最善の行為はワクチンを接種し、周囲にも勧めることだと伝える。彼らは泣き、知らなかったと言う。彼らはワクチンのデマを信じ、接種は政治的行為だと思っていた。だが彼らは間違っていた。過去に戻れたらと思うが、それはできない」

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