こうした書き手を、私は支援してきた。ライターやジャーナリストが、安定して食べていける世界を作りたい。これは私の野望である。
これまでに商業出版で本を7冊書いたことから、出版社には少しだけツテがある。出版企画の通し方も知っている。というわけで、これまでにnoterの書籍化企画を、何度も出版社へお出ししてきた。しかし、これらの提案が企画会議を通ることは一度もなかった。
なぜなら、noteはクローズドな空間であり、SNSのフォロワーと違って「どれくらい部数が出るか」をはかりかねるからだ。
しかも、noteで儲かっている書き手が「本来はnoteで書けばお金になるのに、採算を度外視してまで本で書きたい内容」は、よく言えばこだわりの一品、悪く言えば売れなさそうなテーマに偏る。したがって、noteのジャーナリストたちは、まだ地位や権威につながれていない。
それとは別に、ジャーナリズムを追求する人間が、果たして一定の地位を得て「しまって」もいいのか? という根源的な問題がある。
たとえば、ある大学に勤める人間は、所属する大学について悪いことをおいそれと書けない。これは正しい・正しくない以前に、社会人としての常識だろう。
しかし、ジャーナリズムに潔癖さを求める人間ほど、この矛盾を許せない。「この本をA社から出すからには、A社について悪く言わないでくださいね」という了解を取ることができない。当然、契約はおじゃんになる。
安定した地位がほしい、権威がほしい。これは令和のジャーナリストも考えている。しかし、そうすれば今、まさに批判されている平成以前のジャーナリストのように、メディアへ阿(おもね)る存在となってしまう。
であれば「カルト的な集団」と呼ばれようが、クローズドな空間にとどまっていたほうがいい。悩みぬいた果てに、現代のジャーナリストは引きこもる。
一方、私は古い人間だから今でも本を書く。現代の書き手からは「印税なんて、さしたる収入にもならないのにどうして本を書くのですか」とよく言われるが、それでも書く。なぜなら、普段からSNSやnoteに浸かっていない方にこそ、情報を届けたいからだ。
こう書けばきれいごとに聞こえるが、悪く言うならば扇動したい相手がいるからである。