まず、取材費をペイできるほど、ジャーナリストへ取材依頼があるわけではない。センセーショナルな事件の犯人を取材した記録なら売れるかもしれないが、それこそ「お昼のバラエティー」で使えないネタは売れないからだ。
伝統的なジャーナリズムを追求する人は食べていけない。飯のタネを追いかければ、ヤジを飛ばしてでも扇動記事を生むしかない。なんとも殺伐とした世界である。
私も、とあるメディアの編集長から「ジャーナリストやライターなんて、食べていくつもりがない人がやるもんでしょう」と言われ、絶句したことがある。伝統的なライターは、酔狂で書いていると思われる。だから媒体から取材業務を依頼するにせよ、高単価にする必要がないと思われているわけだ。
実際、この業界で一流とされるジャーナリストの原稿料を知っているが、驚くほど単価が安い。その方(かた)が社会正義を追求する筆を折り、代わりに法人取材を生業にしていたら、年収も数倍になるだろう。
......というのが、「平成までのジャーナリスト」だった。長い前座で申し訳ないが、ここから今の話をしよう。
令和のジャーナリストは、ジャーナリストを名乗らない。そして、ブログサービス「note(ノート)」で取材内容を書いて売る。noteは有料で記事を売ることができ、月に50万円以上売り上げる方もざらにいる。そして、書籍の印税とは異なり売上の9割が手取りになる。
私たちが「足で調べた情報」を知りたければ、noteを読むのが最も早い。男女平等にまつわる実態調査、企業の汚職に関する重要証言、人体実験にも等しい美容の極致、すべての情報はnoteにある。食い扶持(ぶち)に困るジャーナリストはみな、noter(ノーター)になった。
ところが、noteが提供できないものがある。それは、権威と信頼性だ。noteでいくら取材に基づく情報を発信しても、社会的な信頼は手に入らない。たとえ月に100万円稼いでも、履歴書にすら書けない。賃貸に住みたくても審査で落ち、クレジットカードすら契約できない。
だから、noteで売れた人間は安定した地位と権威を求める。つまり、本を出したくなる。あるいは、学術的な肩書きを得たくなる。