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実行できない可能性も...五輪のトランスジェンダー選手「出場禁止令」は、法的・道徳的な「地雷原」

The Olympics’ transgender athlete ban is a legal and moral minefield

2026年3月30日(月)17時24分
マット・ニコル (オーストラリア大学法学講師)
性別とスポーツのイメージ

Claudia Ayuso-Shutterstock

<国際オリンピック委員会(IOC)がトランス女性選手の「出場禁止」方針を明らかにしたが、国連や欧州の「人権法」から実行できない可能性も──>

国際オリンピック委員会(IOC)は、女子種目におけるトランスジェンダー選手の出場を禁止する新たな方針を導入することを発表した。

IOCによると、女子種目の出場資格は「生涯に一度の性別検査(once-in-a-lifetime test)」によって判断される。この基準により、トランスジェンダー女性や性分化疾患(DSD)を持つ選手は出場できなくなる。

IOCではこれまで、トランスジェンダーの競技出場について各競技団体に判断を委ねてきた。大きな方針転換となる今回の決定に、世間の反応は予想通り激しいものとなっている。

法的観点から見ても、この方針は多くの問題を引き起こす可能性があり、トップレベルの競技者から草の根レベルに至るまで、広範な影響が及ぶとみられる。

「性別検査」とは何か?

IOCは、「女子カテゴリーの出場資格は、まずSRY遺伝子の有無を確認するスクリーニングによって判断する」と説明している。

SRY遺伝子とは、一般的に男性の性決定に関与する遺伝子で、通常はY染色体上に存在する。この遺伝子の有無を調べることで、生物学的な性の判断基準とする仕組みだ。

さらにIOCは次のように説明している。


科学的根拠に基づき、SRY遺伝子の有無は生涯を通じて変化せず、男性としての性分化を経験したかどうかを示す非常に正確な指標であると考えている


SRYは「Y染色体性決定領域遺伝子(Sex-determining region Y)」の略称であり、その存在は通常、男性型の性発達と関連しているとされる。

この検査でSRY遺伝子の存在が確認された場合、その選手は女子カテゴリーへの出場が認められない。スクリーニングは、唾液、頬の内側のスワブ(綿棒検体)、または血液サンプルを用いて実施される。

またIOCは、この方針は遡及適用されず(過去には適用されない)、草の根レベルやレクリエーションスポーツには適用されないとしている。

IOCが決定に踏み切った理由

IOCは昨年9月、この問題に関する科学的・医学的・法的な動向を検討するためのワーキンググループを設置した。

その結果、同グループは「筋力・パワー・持久力に依存するすべての競技において、男性の性は競技上の優位性をもたらす」との認識で一致したとIOCは説明している。

IOCのカースティ・コベントリー会長は次のように述べた。


オリンピックでは、ほんのわずかな差が勝敗を分ける。したがって、生物学的に男性である選手が女子カテゴリーで競技することは、公平とは言えないのは明らかだ


IOCはさらに、1100人以上のオリンピック選手を対象に調査を実施し、その結果として「女子カテゴリーにおける公平性と安全性を確保するには、明確で科学的根拠に基づく出場基準が必要であり、女子カテゴリーの保護は共通の優先事項である」という強い合意が得られたと説明している。

2021年の東京オリンピックでは、ニュージーランドの重量挙げ選手ローレル・ハバードが、オリンピック史上初めて公にトランスジェンダー女性として出場した選手となった。彼女は最重量級で最下位に終わっている。

今回の方針は、各競技団体にも広く採用されるとみられている。実際、ワールドアスレティックスや世界水泳連盟など、すでに同様の検査を導入している団体もある。

この方針は、2028年ロサンゼルス五輪以降、オリンピック本大会、ユースオリンピック、そして予選大会の女子種目に適用される。

人権法とスポーツ

IOCの決定は、すべての人にスポーツ参加の権利を保障する複数の法制度と衝突する可能性がある。

国連の「体育・身体活動・スポーツに関する国際憲章」では、スポーツへのアクセスと参加は国際的な人権と位置づけられている。

また2019年には、国連人権理事会が、IOCのようなスポーツ統括団体に対し、国際人権基準に沿った方針と運用を導入するよう求める決議を採択している。国際人権法は各国に対し、人権の保護と促進を義務づけている。

IOCを含む多くの国際スポーツ団体がヨーロッパに拠点を置いていることから、欧州人権条約も今回の遺伝子検査ルールに適用される可能性があり、この方針が条約に抵触する可能性も指摘されている。

さらに国連人権理事会は、女子スポーツの出場資格としての遺伝的性別検査について、平等、身体的・心理的完全性、プライバシーに関する国際的権利を侵害する可能性があるとも指摘している。

IOCの新方針には支持の声もある一方で、女子競技から排除される選手に対して、長年認められてきた基本的人権が十分に保障されていないとの批判もある。

影響を受ける選手たちは、これらの新ルールをスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴する可能性がある。CASはこれまでにも、性別適格性をめぐる争いを審理してきた国際スポーツ界の最高裁的機関だ。

IOCの新たなルールは、欧州評議会の「人権と生物医学に関する条約」や、多くの国で定められている医療目的以外での遺伝子検査を禁じる国内法に抵触する可能性もある。

取り残される人々

今回の決定はスポーツ界にとって大きな転換点となる。一部からは歓迎の声が上がる一方で、怒りや困惑も広がっている。

今後は、異議申し立てや訴訟といった形で波紋が広がる可能性もある。エリートレベルの女子スポーツで競技を続けたいと考えるトランスジェンダーやインターセックスの選手たちが、今後どのような立場に置かれるのかは、現時点では見通せない。

The Conversation

Matt Nichol, Lecturer in Law, CQUniversity Australia

This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.


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