アステイオン

日本文化

「和食」は本当に世界で通用するのか?...「伝える」と「変わる」の狭間、日本文化継承のジレンマ

2026年04月08日(水)11時00分
稲賀繁美(国際日本文化研究センター及び総合研究大学院大学名誉教授)

伝統の逆説

一般的に、伝統的な形式を守り抜くことは停滞を招き、革新することは伝統からの乖離、または裏切りとみなされる。忠実な弟子は凡庸と呼ばれ、卓越した弟子は師と決裂する。意図的な背信者・反逆者だけが伝統とはなにかを明確に意識するが、そこに結果するのは、伝統からの離反でしかない。

つまり「伝統」とは、こうした継承の失敗としてしか、その姿を現さない。「継ぐこと(heritage, succession)」とは、「償い(compensation)」、すなわち欠損と喪失を引き受ける覚悟に他ならないのである。ここで重要となるのが「お稽古事」という実践である。

桑原ゆう氏の『アステイオン』103号の論考「日本音楽の本質とは」が示すように、西洋の「レッスン」が言語化された技法の効率的伝達を目指すにたいし、日本の「稽古」は言語化されない領域を温存したまま、師弟関係のなかで時間をかけて成熟を待つ(*1)。

ここには「触れる」という中動態的な関係性がある。能動でも受動でもない接触が伝達の核心をなしている(*2)。岡倉覚三(天心)の英語著作『茶の本』に描かれる伯牙の故事が示すように、奏者と楽器が一体化する瞬間は、コトバによる説明では再現できない、コトバの彼方にある。

これは「時・処・位」の「間」を読む、あるいは「呼吸を読む」など、とりわけ武術・武道の稽古の修練で重視される。防具をはずし、素足で稽古するのも、皮膚感覚を通じて生死の距離を体得するためだ。効率化は、この核心を損なってしまう。

「海外への発信」――その根本的な逆説と密かな伝統と

この問題は、武術・武芸を海外発信する際には、さらに鋭利になる。柔道本来の「柔軟性」は国際競技化によって失われた。だが「日本的柔軟性」をそのまま海外で押し付ければ、別の硬直を生む。「押し付ける」ことは、柔軟性の放棄なのだから。つまり日本的な「藝事」の海外発信とは、柔軟性を守るために柔軟性を手放すという逆説を孕んでいることになる。

2025年夏に逝去された渡辺俊夫・元ロンドン藝術大学教授は晩年、世界各地の「日本庭園」を調査した。だがそこに共通する普遍的な「日本庭園」の構成要素を見出すことは不可能だったと述懐されていた。この指摘は示唆に富む。

「発信」したものは「受容」されるとともに必然的に変質する。しかし、そこで経験される相互の自己認識の切磋琢磨、際限ない脱皮と変態こそが、「伝統」に潜んでいた可能性を顕在化させる契機となるのではないか。

近年のノーベル賞受賞研究も、この視点を裏打ちする。2025年に受賞した坂口志文氏(生理学・医学賞)は「制御性T細胞」を発見し、免疫の暴走を防ぐ仕組みを解明した。

この制御性T細胞は状況に応じて亢進と抑制の両方の機能を発揮する。正誤の二元論で割り切ろうとするキリシア哲学や「一神教」の伝統から見れば、きわめて異質な思考回路を、その背景に秘めている。

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