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「日本特産品」を「海外」に発信することは、しばしば自明の善として語られる。しかし、その前提は揺るがないのか。その可能性と限界について、考えてみたい。
たとえば、玉露といえば京都の茶としても知られるが、はたしてこれは「海外発信」に使えるだろうか。
かつて筆者がパリに住んでいた頃、お土産に玉露を頂戴した。しかし、パリの水道水で淹れてみたところ、これはおよそ呑める代物ではなく、もはや飲用に耐えなかった。
玉露はパリの水道水の水質検査にうってつけのリトマス試験紙としては有効だったが、環境が変われば即座に破綻してしまう。軟水という日本ならではの自然条件の上に成立した味わいは、硬水では発揮出来ない宿命にある。
『アステイオン・トーク』で料理人の村田吉弘氏は、料理は糖質と脂質と旨味によって構成される、と主張される。そのうち「旨味」は湿潤な海洋国家で育まれた感覚であり、硬水地帯では共有されにくい。
つまり硬水使用文化圏に日本料理を「発信」するには、コンブや鰹節で「旨味」を取るのとは異なった手段で補填、あるいは置換しなければならなくなる。
だがここで日本料理を「海外向け」に調整した瞬間、それはもはや「和食」ではなくなってしまう。しかし、調整を拒めば、理解されない。地域限定ならばこその価値観が、ここで再認識される。つまり日本文化の発信とは、このジレンマから逃れられない。
次に、その地域に根付いた文化伝統の継承という問題に目を向けたい。日本文化史を研究する熊倉功夫氏は、北米ハーヴァード大学でかつての町並みがきちんと保存されていることに感慨を催された。そして現代の日本ではなぜ伝統が軽視されるのかと問うた。
こと建築に関しては、返答は容易だろう。現行法に従って資産価値評価を行えば、減価償却計算により、施工後半世紀も過ぎた建築は、資産価値はほぼゼロとなる。耐震基準などに合致しなくなれば、補修工事には使用価値を超える経費が算出され、これに相続法などが相乗すれば、解体が合理的選択となる。
それは名建築や名庭園であっても例外ではない。ヴォーリス設計の神戸女学院の建築ですら、資産運用の観点から解体が勧告された。この事実は象徴的といってよい。
その背景には、株主利益を最優先する経済原理がある。人口減少が確実な社会においても、成長と拡大が至上命題とされる。政治家もこの「日本株式会社」の原理に従順でなければ、選挙で落選し、政治生命を絶たれてしまう。
したがって都市部ではスクラップ・アンド・ビルドが常態化し、反対に地方は静かに消滅する。これは変化を好む国民性の問題ではなく、制度設計の帰結である。では、このような社会通念のなかで「伝統」とは何でありうるのか。
